<Visit to Hirosaki,Aomori & Morioka>
2024年5月20日〜5月23日:弘前/青森/盛岡の旅

前回、弘前市に行ったのは2019年でしたから、5年前でした。
弘前に住む親せきが昨冬に怪我で入院していたのですが今年退院したというので、お祝いがてら訪問しようと思っているのであります。

弘前城の桜は有名ですが、咲き誇るのがゴールデンウィークのときなので大変な混雑になるそうです。そうなるとホテルも高くなるし、予約を取るのも大変なのでゴールデンウィークが終わって騒ぎがひと段落してから訪問することにしました。
まずはホテルから。「Booking.com」というサイトで探しますが、前回宿泊した「キャッスルホテル」がありません。どうやら廃業してしまったようです。弘前城にも親せき宅にも近くて便利なホテルだったのに惜しいですね。代わりに見つけたのが「弘前グランドホテル」でした。ここなら親せきの家まで歩いて数分ですし、ちょっと古そうではありますが、その分料金も大変リーズナブルです。ここに2泊しましょう。一日は念願だった青森か五所河原方面に行ってみることもできますね。
で交通手段はと言うとまず車、飛行機、そしてJRつまり新幹線になりますね。車は前回利用しましたが、体力的に途中で1泊しないとならないのでちょっと大変ですね。飛行機の便を調べてみると、青森空港が一番近く、代わりには大館能代空港と三沢空港があります。三沢は反対方向なので大館能代には一日3便飛んでいますし時間的にも丁度いい感じです。しかも割引チケットが購入できます。
ということで、行きは全日空の大館経由とすることに決めました。さて、帰りも大館からとするのはちょっとつまらないですね、新幹線にしましょうか。となると「盛岡」に寄ることもできますね。昨年、ニューヨークタイムスの「2023年に行くべき52か所」で紹介されて一躍脚光を浴びた街です。「わんこそば」はかつて食べたことがありますがそれ以外は何も知りません。弘前への帰り道に立ち寄って探索するにはぴったりの街だと思います。

ということで今回の日程は;

5月20日
東京=>大館能代空港へ飛んで、電車で弘前入り。「弘前グランドホテル」に宿泊。
5月21日
電車で五所河原へ。「立佞武多」をみて弘前に戻ってグランドホテル泊。
5月22日
弘前を出て青森三大丸山遺跡へ。青森市内で昼食後ワ・ラッセ見物。「はやぶさ38号」で盛岡に移動、市内で夕食。「盛岡アートホテル」宿泊。
5月23日
盛岡市内を散策、「ぴょんぴょん舎」で昼食後「こまち32号」で帰京。

となりました。今回の旅行の費用は交通費80,600円、宿泊費24,900円、食費26,800円で、お土産代その他を除いた合計は約132,000円となりました。

●第1日目:5月21日(月)
さて当日、自宅を朝7時に出ました。地下鉄の駅までバスに乗り、大門で京急線に乗り換えて羽田空港まで行きました。

空港で朝食を食べたのですが、これが失敗。思ったより時間がかかってしまい急いで保安検査を通過しようとしたところで携帯をゲートにかざすと黄色い紙が出てストップ。なんと締め切り時間を過ぎているというのです。実はこのフライトは人数が少ないためにバスで飛行場の中に駐機している飛行機まで移動するので、通常より移動にかかる時間が長くなるのでその分早く締めきっていたのです。だからまだ出発時間まで15分もありますが、タイムアウトになってしまったのです。ANAの地上係員がやってきて、ギリギリで乗り込む手伝いをしてくれるのかと思ったらそうではなく、次の便を手配するのでそっちに乗ってほしいということになりました。私のチケットは本来は変更が効かないチケットだったのですが、まだ飛行機が地上にあるうちに到着しているし、バスの時間云々というのは航空会社の都合なので無条件で変更してくれました。とはいえ次の便が出るまで3時間もありますので、どこかで時間をつぶさなければなりません。

さて、仕方がないのでうろうろとターミナル内の売店を見物します。
おや、出発ターミナルの端に何か出来ていますね。昔、壁があったところがぶち抜かれていてその奥に国際線の出発口ができています。しかも2階の壁側には蔦屋書店が入っていてその前にはパソコンの電源と照明が付いた読書テーブルまで用意されています。
ここなら落ち着いて時間をつぶせそうです。

ようやく搭乗時間となりました。いやあ3時間は長かったですね。
預ける荷物がないので身軽です。機内は空いています。飛行機が動き出して滑走路の手前でスタンバイします。ふつうなら、一瞬止まってすぐに滑走路に侵入を始めるのですがピタッと止まったまま動きません。窓から外を見ていると次々と着陸する飛行機が見えます。その様子を見ていると、1月2日の日航機と海上保安庁機の衝突事故を思い出しました。衝突した現場はC滑走路、つまりこの目の前の滑走路です。そして海上保安庁の飛行機はあの辺に止まっていたはずです。つまり目の前がまさに事故現場だったのです。機長さん、急がなくていいので、ちゃんと管制塔の「GO」を聞いてから滑走路に出てくださいね。結局、空港混雑のために15分くらい順番待ちをして飛び立つことができました。やれやれ。


出発ゲートの最右端に新たにできた国際線出発口。2階から見下ろしています。

あの角を曲がったところが事故現場のはずです。あ〜おそろしや。

日本海が見えます。もうすぐ着陸します。

飛び立ってからは順調に飛んで無事大館能代空港に着陸しました。
さて、ここから大館駅までは、1時間ちょっとです。
空港の玄関を出るとバスが待っていました。これが大館駅までの「リムジンバス」なのですね。どこからどう見ても普通の路線バスじゃないですか。まあ、それでも座席が横向きではないのと乗ってすぐに荷物置き場の箱が取り付けられているところが路線バスとは違いますか・・・ともかくバスに揺られて大館駅前に着きました。

大館の駅前は再開発の工事が進められていました。
で、駅前には「花善」という鶏飯のお店がありまして、大館の名物だということですので、当初からここでお昼を食べる予定にしておりました。ところが飛行機が3時間後の便になったので「花善」に到着したのが午後3時を回ってしまい、レストランは仕舞まっておりました。それでも隣の弁当販売所で目的の「鶏飯弁当」を購入することが出来ました。よかった、良かった。


これが空港と大垣駅を結ぶ「リムジンバス」であります。

これが「鶏飯」で有名な「花善」。大館の駅前に新しい建物を建設していました。儲かってるんでしょう。

これがJR大館駅舎です。周囲はリニューアル工事の真っ最中でした。

さて、お弁当をぶらさげて駅に行きました。駅で食べようと思ったのですが、すぐに弘前行の列車が来ることが分かりました。残念ながら大館駅ではSUICA(PASMO)が使えませんでした。やってきた電車は2両編成で、ドアは自分で開閉するようになっていました。地方の路線でよく見る方式ですが、昔のパリの地下鉄も同じやり方でしたね、ちょっと懐かしく思い出しました。
乗客はわずかで、中はガラガラですので失礼して弁当を食べさせていただきましょう。「鶏飯」の中身は炊き込みご飯でした。しっかりと味付けされた鶏肉が美味しいですね。


ドアの開閉は脇に付けられたスイッチで行います。

列車は2両編成でした。乗客もまばらです。

これが70年の歴史を持つ花善名物の「鶏めし弁当」、980円です。

秘伝のスープで焚き込んだご飯と甘露煮、煮物も美味しいですね。

さて、電車は16時15分に弘前駅に到着しました。
駅からホテルまでは歩けない距離ではないのですが、時間も押しているのでタクシーに乗ってホテルまで行きます。チェックインした部屋は最上階の601号室をアサインされました。


はい、弘前駅に到着しました。

出口の改札に向かうと。人形が出迎えてくれました

タクシーで5分、弘前グランドホテルに到着しました。

荷物をほどいてシャワーを浴びたら親せきの家に向かいます。
お宅は弘前公園の近くなのでホテルからは歩いて8分くらいです。退院した義姉は車いすながらとても元気そうでした。今夜は我我のほかにも親族が集まるとのことです。

やがて頼んでおいた料理屋さんから、仕出しの料理が到着しました。
私たちが東京から来たというので地元の味を作ってくださったそうです。例えば地元名物イガメンチ(イカのすり身揚げ)とか津軽風茶碗蒸し(甘みが強い)とか・・・・特に気を使っていただいたのはお酒でした。わざわざ酒屋に依頼して珍しいお酒を2本も用意してくださっていました。お気遣い、ありがたいことです。

メンバーがそろって宴が始まりました。5年ぶりに顔を合わせる姪や甥ですが私には誰が誰やら区別がつきません。でも歓迎してくださっているのはわかります。お料理やお酒をたくさんいただいて昔のアルバムを引張りだしたりして、思い出話に花が咲きました。


お刺身とオードブルのお皿です。

お寿司の盛り合わせの皿。

お料理が入ったお重。イガメンチも見えます。

津軽風の味付けの茶碗蒸し。

「如空」と「豊盃」どちらも津軽のお酒です。

古いアルバムが出てきました。

懐かしい話で盛り上がります。

●第2日目:5月21日(火)
2日目、窓のカーテンを開けると、明るい日差しが差し込んできました。いい天気です。

今日は義姉の娘の一人が、仕事が休みの日だそうで時間があるからと車を出して案内をしてくれることになっています。「五所河原は電車の便が良くないから・・・」ということだそうでとてもありがたいことです。
では朝食をいただきましょう。実はこのホテル、朝食が無料なのです。基本的なご飯と味噌汁とおかずが数品だそうですが、どんなものがあるがみてみましょう。サラダ類は遠慮してポテトサラダを少々と玉子焼き、焼きサバ、肉団子それに納豆をもらいました。十分ですね。あと、津軽と言うことでリンゴジュースと牛乳が付いています。コーヒーや紅茶はインスタントでした。

9時ぴったりに迎えの車が来ました。
これから弘前市を抜けて五所河原方面に向かって畑の中を進みます。


例によってたんぱく質のおかずだけの朝食です。焼きサバに、肉団子と納豆で十分食べられます。

弘前市街からみた岩木山。山頂が雲に隠れています。

青い線が今日のルートです。黄色い線は翌日のルート。

途中の道路から見た岩木山は頂上が雲に隠れていました。午後になれば晴れるかな?

最初に向かうのは五所川原の「斜陽館」です。
小1時間ほど走って五所河原の中心街を過ぎて金木の街に入りました。金木は太宰治の生地です。太宰は1909年6月にここ金木の名家の6男として生まれました。本名は「津島 修治」と言い、生まれた後は乳母が付いて青森でも有数の豪華な邸宅で育ったのです。文豪として知られ、主な作品に「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」などがあるのですが、その私生活は乱れていて何度も自殺未遂や薬物中毒などを繰り返す破滅的な人生を送っているのです。1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水して38歳でその生涯を閉じました。没落した華族の女を主人公にした「斜陽」はベストセラーとなり、太宰の生家はその名にちなんで「斜陽館」と呼ばれています。太宰の父親で大地主だった津島源右衛門が明治40年(1907年)に当時のお金で4万円(現在の貨幣価値にして8億円)で建てたのが現在の太宰治記念館すなわち「斜陽館」なのです。

約680坪(約2200平方メートル)もの広大な敷地に、米蔵にいたるまで青森ヒバ(ヒノキ)を使って建てられた豪邸は、東北豪商の館としても見事な建築物となっています。この豪邸も戦後になって津島家が手放したのち、昭和25年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れていたそうです。しかし、平成8年3月に旧金木町が買い取ったことにより、旅館「斜陽館」は46年の歴史に幕を降ろしました。しれでも明治時代に建てられた貴重な木造建築であり近代和風住宅の代表例として2004年に国の重要文化財に指定されています。


五所河原の市街に入りました。

「竜飛」という地名が出てきました。

道路の左側に並ぶ金属の棒は「防雪柵」で雪の吹き溜まりを防止するものです。

「斜陽館」に到着しました。入館料は600円でした。

斜陽館の内部。ここは休息室。

板の間。ピカピカに磨かれた床が見事です。

板の間の上部。旅館時はここに2階の部屋を作って使った模様。

奥の蔵に続く通路。

正面の四角いコンクリートは風呂の跡。

一番奥が座敷で真ん中が茶の間、手前は常居。

中庭。

仏間。

2階の洋室。

2階の廊下。

次に回りましょう。斜陽館を出て、車は一本道を北上します。次はシジミラーメンを食べに行くのです。

シジミラーメンと言えば十三湖のドライブイン「和歌山」さんが元祖です。
十三湖は、白神山地から注ぐ岩木川と日本海が交わる汽水湖で、地域特産物のヤマトシジミが生育しています。汽水湖では満潮時には海水が流入し、干潮時には「岩木川」から栄養のある淡水が入り込むため、シジミにとっては最高の環境となっており、そのおいしさから全国有数の産地となっています。ちなみに十三湖は、近年生誕100周年を迎え 太宰治の生まれ育った五所川原市金木町の近隣に位置し、小説「津軽」の中にも十三湖のシジミとして登場します。にもかかわらず、その存在を世間に認知されていなかったため、安値でしか引き取ってもらえなかったそうです。十三湖の主な産業はしじみ漁なのに漁師がそれだけで生活するのは困難なため、多くの人が都会へ出稼ぎに行かざるを得ない状況でした。そんな状況をなんとかしようと、2代目 若山専太郎が村おこしのために十三湖のシジミを使った料理を考案し、昭和57年についに完成させたのが「シジミラーメン」だったのです。こうして出来上がった「シジミラーメン」の作り方を若山氏は近隣の食堂にも伝授し、それぞれがオリジナルのラーメンを開発するように推奨したそうです。それがだんだん評判になって「シジミラーメン」はあちこちのお店で食べられるようになり、有名になっていったわけです。

これからお邪魔するのは、その「シジミラーメン」を開発した元祖「和歌山」です。
はい、来ました。白いスープに細いちぢれ麺、具はゆで卵とワカメとメンマそれにスープの素となったシジミが入っています。基本塩味でシジミの美味しい出汁がでていますねえ。さすがに宍道湖と日本一を競う十三湖のシジミだけのことはありますね。このシジミは「十三湖産大和しじみ」として漁協が資源保護の観点から漁期を決めて生産管理をしているのだそうです。細い麺は食べやすく、するすると口に入ってきます。うまい!お店の人が「から入れに使ってください。」と器を持ってきてくれたので、シジミを取り出しては食べて殻を器に入れます。でも、シジミばっかりつついていると麺が伸びてしまうので、たまにずずっと麺を吸い込みながら食べていきます。丁度お昼時とあって次から次へとお客さんが入ってきます。お店に軍服を着た人たちの一団がいると思ったら、ここから10Kmくらいのところに航空自衛隊の車力分屯基地(高射砲部隊)があるからのですね。ふぅはぁー、美味しかった。ご馳走様でした。


「斜陽館」から15分ほど走って「和歌山」に到着しました。ここでお昼にします。

待望のシジミラーメンをいただきました。

チリチリの細麺にシジミの出汁が入った、これがシジミラーメンです。

お店からも十三湖が一望できます。

こうして念願のシジミラーメンのランチを味わうことが出来ました。
ふたたび車に乗ってメロンロードと呼ばれる海沿いの道を来た方向に戻ります。つぎは高山稲荷神社に向かいます。

この神社、創建ははっきりとわからないのですが、鎌倉から室町にかけてこのあたりを統治していた豪族の安藤氏の手によって建てられたものされています。五穀豊穣、海上安全、商売繁盛の神様としてご利益のある神社と言われているとのこと。この神社の見どころはなんといっても「千本鳥居」です。千本鳥居と聞くと、京都の「伏見稲荷大社」が有名ですが、実はここ青森にも「高山稲荷神社」があったのですね。高さ約2メートルの朱色の鳥居が延々と並んでいて、春夏秋冬の四季に映える不思議な空間を創出しています。今度は冬の景色も観てみたいものですね。

入口の大きな鳥居をくぐった先の駐車場に車を停めて、わきの坂道を登ってみます。山の上に本殿があり、その向こうが庭になっています。降りてみると、そこが「千本鳥居」の入り口となっていました。うーんこれはすごい!京都の伏見稲荷には行ったことがありませんが、これで十分と言えるほどの迫力です。しかも3年ほど前に建て替えられたらしく、どの鳥居も新しく光り輝いています。


「竜神宮」と名付けられた別宮がありました。

ここが「千本鳥居」の最初の一本目です。

池があります。

藤棚がみえます。周囲には野生の藤もたくさん咲いています。

全国から集められた、お役目を終えたキツネの像。たいていは対になって送られてくるそうです。

蛇行する竜のような鳥居ですね。

ここには自生した藤も多くみられます。

森の向こうには海が見えました。

いやあ素晴らしかったですね、「千本鳥居」。初めて見ましたが感動しました。

では五所河原ツアーの最期に「立佞武多(たちねぶた)」を見に行きましょう。
「立佞武多」とは、明治中期から後期を中心に行われた五所河原の伝統民族芸能で、「立佞武多」という名称は平成の復活の際にそのねぶたの立ち上がった様子から付けられたそうです。人形は 高さ20メートル以上、重さ16トンという巨大なもので、弘前市の扇形ねぷたとも、青森市の人形形ねぶたとも違う、明治末期の巨大化した佞武多の様式を伝えています。テレビでよく紹介される「ねぶた」は青森のもので立体的な点は同じですが、青森の人形は高さを抑えるために圧縮されています。一方五所河原のねぶたは そのままの立ち姿を見ることができます。当然通りを横切る電線に引っかかりますので、走行するルート上はあらかじめ進行方向を横切る電線を取り払ってあるのだそうです。そして「立佞武多の館」には3体のねぶたが保存されていますが、毎年1台が新規に作られて一番古いねぶたと入れ替わります。つまりデビューを含めてねぶたの寿命は3年ということになります。ちなみに青森のねぶたはワ・ラッセに保存するもの以外は廃棄、弘前の扇ねぷたも基本的に廃棄して毎年新しく作り変えられるそうです。せっかく作ったのに、もったいないですね。

車は五所川原市の中央部にある「立佞武多の館」にやってきました。
伝統の「立佞武多」をそのまま収容して保存展示するために特別に作られた「館」ですが、すでに建造以来20年を経過して老朽化が目立つために近く改修工事が行われるそうです。ですので来年は一年間休館が決まっているそうです。
中に入って入場券を購入し、エレベーターで最上階の4階に上がります。4階の通路に出ると、目の前にねぶたの顔が見えます。4階から壁伝いにスロープを降りながらねぶたを鑑賞するのです。半分くらい降りたところに座席があって反対側に投影される画像を見ることができます。


入口です。ここからエレベーターに乗ります。

目の前にねぶたが現れました。

この角度からねぶたを見る機会はそうはありません。

通路の途中に飾られていた鬼の顔の部品です。

通路の一部は跳ね上げ式になっていて、そこをねぶたが通って表に出ていくようになっています。

途中に座席が作られていて上映される映画を見ることができます。

地上に降りてきました。見上げると大きいですね。

迫力があります。重さは19トンですって。

6階には津軽平野を見渡すレストランがありました。

工房では次のねぶたの制作中でした。

館内にはお祭りで使う大太鼓も保管されています。

館の全景です。右側のガラス戸が開きます。

ガラス戸がスライドして開き、ねぶたの”出陣”です。

うはあ、これはすごい物を見ました。ガラスの扉が開いて20メーターを超えるねぶたが出てくる瞬間を見てみたいですね。

これで五所河原ツアーは御終い、弘前に戻ります。
すっかり晴れあがって岩木山がきれいに見えます。弘前市内に戻った私たちは、「津軽藩ねぷた村」というところで降ろしてもらいました。五所河原に続いて今度は弘前のねぷたを見物するのです。「ねぷた」も「ねぶた」も語源は同じで訛りの違いだけなのですが、青森と五所河原は「ねぶた」、弘前は「ねぷた」と呼んでいます。そもそも「ねむた」から「ねぶた」、そして「ねぷた」に変容していったらしく、刊行物に「ねぷた」の語が登場したのは明治以降だそうですから意外と新しいものです。一般的に使われるようになったのは戦後と言われています。昭和30年代になって青森、弘前両市とも観光目的で名称の統一をはかる動きが出てきて1957(昭和32)年、弘前では「弘前ねぷたまつり」と名乗り、青森でも翌年に「青森ねぶた祭」と呼称しました。そして、1980(昭和55)年には「弘前のねぷた」「青森のねぶた」として国の重要無形民俗文化財に登録されるようになってそれぞれの名称が確立したそうです。

前記したように、弘前のねぷたは扇形の灯篭に絵を描いたものです。ここではそのねぷたの制作過程を見ることができます。「ねぷた村」にはほかにも土産物店が並んでいて買い物ができるほか、ねぷたとか津軽焼きの絵付け体験とか津軽三味線講習会や津軽弁講座などがあって、各種の体験もできるほかレストランもありますので食事も楽しめるそうです。


晴れてきたので山頂まで見えるようになりました。

「津軽藩ねぷた村」に到着しました。

ここで本物のねぷたを見ることができます。

これも迫力があります。

金魚ねぷたは津軽藩が産業として奨励したものであり、幸せを運ぶ魚として人気があったそうです。

津軽三味線の演奏がありました。演奏者は長峰健一氏で津軽三味線コンクールの入賞者です。

「津軽藩ねぷた村」のあとは、弘前に残る歴史的な建物を見てみようと思います。
弘前公園に沿って市役所のあたりまで10分ほど歩くと、市立図書館があります。ここは明治39年に建てられ、その後実際に昭和6年まで市立図書館として利用されました。設計施工は弘前の大工、堀江佐吉です。木造3階建てで、左右に配した八角形の双塔が印象的な外観となっています。ルネッサンス様式を基調としながら、漆喰塗りの外壁や寺院建築に見られる木鼻(きばな)を用いるなど、随所に和風様式が取り入れられています。また、室内を明るくするため多数の窓を設け、多方向から採光するよう工夫がされています。1階は、旧市立図書館の形態を復元し、当時の関係資料も展示されています。


入り口に「弘前図書館」の文字が見えます。

確かに中は明るいですね。

1階の廊下です。

ここは1階の資料室です。

ここは2階です。

上階への階段。

旧市立図書館の裏を見ると、なにやら模型が置いてあります。見るとこれは全部弘前市内にある歴史的建造物のミニチュアが大集合しているではありませんか。これは面白い。これで全部まとめて一気に見物できますね。


裏に市内の洋館のミニチュアがありました。

弘前聖天教会の聖堂です。大正10年の建築です。

これはすぐわかります、日本基督教団の弘前教会堂。明治39年の建築物でした。

これは旧弘前郵便局でした。建築されたのは明治35年です。

明治39年に作られた、青森銀行記念館。

明治25年建築の旧弘前市役所。

弘前市公会堂です。大正12年の建築物。

あ、これ、さっき見てきた旧弘前市立図書館です。

こうしてみると明治から大正の時代にずいぶん多くの洋風の建物が作られていることが分かります。

さらにこの一角には東奥義塾の外国人教師館というものもありました。東奥義塾とは、藩校であった稽古館を母体に明治5年に創立された私学で、東奥義塾が招へいした外国人教師専用の住居として、明治33年に建てられたということです。ここも中が公開されているので入ってみます。
館内には、当時の家具や調度品なども置かれ、明治期の外国人の生活ぶりを感じることが出来るようになっています。また、1階には喫茶室が設置されており(実際に営業中でした)くつろげるスペースとなっています。


こちらはミニチュアではありません。旧東奥義塾外人教師館です。

1階の右手は喫茶室です。

ここは2階です。

時代を感じさせる家具類です。

当時の教師の写真が展示されています。

多くの外国人先生が来日されたことが分かります。

明治時代のことなのでさぞ不便もあったことでしょう。

ここは?部屋にブランコがありました。

旧青森銀行です。いかにもという雰囲気ですね。

ホテルの帰り道に見つけたのは、青森銀行の古い建物です。弘前にはホント多くの歴史的建物が残されているのですね。

その夜は、義姉をはじめとして、五所河原まで案内をしてくれた姪などと一緒に市内の居酒屋で賑やかに会食をいたしました。

 

●第3日目:5月22日(水)
3日目の朝です。今日もとても良い天気です。朝食を済ませたらチェックアウトをして、最寄りのバス停からバスに乗って弘前駅まで移動します。

この後は電車に乗って新青森駅まで移動して「三大丸山遺跡(さんだいまるやまいせき)」を見にいきます。「三大丸山遺跡」までは新青森駅からは「ねぷたん号」という直通バスが運転されていますのでそれを利用します。運賃は300円です。

平成4年の発掘調査によって、縄文時代前期(紀元前3900〜2200年)の大規模な集落跡がみつかり、平成9年に史跡として指定されています。さらに令和3年には三大丸山遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に登録されています。
縄文時代は一万年という長い期間にわたって戦争もなく平和が続いた、人類史上類を見ない自然との共存を成しえた文化なのです。なかでも注目されるのは、狩猟採集を基盤としていたにもかかわらず、基本的に定住生活をしていたこと。狩猟採集民族の場合だと、狩りの獲物がとれなくなれば拠点となる住まいを動かすといったことは珍しくない。しかし、縄文人は食料を多様な動植物から摂取することで、それらを克服した可能性が高いのです。まだまだ残っているなぞは多いのですが、この遺跡をはじめとして徐々に解明されていくことでしょう。


弘前駅です。

新青森駅です。モダンな建物ですね。

三大丸山遺跡の入り口に着きました。

はるか向こうに再現された遺跡が見えます。

ボランティアの方々が解説をしてくれます。

ここが最初に発見されたときの地層です。

地層から突き出しているのが土器の破片です。

これが竪穴式住居(復元)です。

内部はこうなっています。

高床式のこちらは倉庫に使われた建物(復元)と思われます。

内部の様子です。

この地区には大人の墓地(土杭墓)が並んでいます。

両側にある白っぽい丸いところが墓地で、村の道路を挟んで向かい合わせに配置されています。

ここは湿地帯で「捨て場」として、土器や木製品、骨、種子などが埋まっていました。左の小屋のなかには・・・

このように土器の破片が捨てられていました。

この大型掘立柱建物(復元)が建てられた目的は現在に至るも謎となっています。

これが実際の柱が立っていた跡です。柱の直径は1mで間隔は4.2mです。

直径1メートルの木(クルミ)の中心部がまだ残っています。

柱の跡を保護するために全体的にドーム型の屋根がかけられています。

さてこれが屋外展示物の最後大型竪穴建物(復元)となりました。

隣に建てられた大型竪穴建物の中に入ってみました。
ここは集会所だったのでしょうか?100人くらいは楽に入れそうです。

いやあ、楽しませていただきました。続いて資料館を見ます。

こちらには屋外で見つかった土器などの出土品を展示しています。

土器がたくさん見つかっているのですね。

左から右に行くにしたがって時代が新しくなります。

これが一番新しい形の土器らしいです。

こちらには竪穴式住居の模型があります。

興味深く拝見しました。

さて、十二分に縄文時代を満喫したところでお腹もすいたので帰るとしましょう。入口から路線バスが出ています。バスに乗って青森駅前まで移動します。弘前から来た時に降りたのは、新幹線が止まる新青森駅ですが、この後昼食を食べたりねぶたを見るワ・ラッセがあるのは青森駅のほうなのです。

青森駅前に着いたところでバスを降りて、向かったのは「おさない食堂」です。ここでホタテ料理を食べる予定です。
注文したのは刺身定食とホタテカレー、それにホタテの貝焼き味噌の3品です。昼の営業が終わる2時半ぎりぎりに飛び込んだところ、私たちの前の人で御終いと言われたのですが「東京からホタテを食べたくて来たのでなんとかお願いします。」と頼み込んだら「ならいいですよ」とオーケーをもらえたのです。ですので手早く食べましょう。刺身定食は食べたことがありますが、カレーと貝焼き味噌は初めての料理でした。甘めのカレーがホタテに良く合っていましたし、貝焼き味噌も玉子でマイルドになった味噌の味がよくわかりました。


ホタテの刺身定食です。ヒモの煮付け、イカの塩辛、ホタテの味噌汁が付いています。

刺身にはホタテ2個分が使われています。

こちらはホタテカレーです。こちらにもホタテが2個分入っています。

ホタテの貝焼き味噌は三つ葉とホタテを味噌で煮て玉子で綴じたもの。ウニが乗っています。

ああ美味しかった。ホタテ料理を堪能しました。
では次はワ・ラッセに行って「青森のねぶた」を見ることにしましょう。

駅前広場を渡って海のほうに向かうとすぐにワ・ラッセの特徴のある赤色の屋根が見えて来ました。
ここに青森の3大祭りの最後を飾るねぶたが保存されているのです。五所河原の「立佞武多の館」では毎年1台が入れ替わるということでしたが、ワ・ラッセでも数年に一度、新しいねぶたと入れ替えを行うということでした。


ワ・ラッセの建物。白く空いたところから館内に入る。入口は2階になっています。

2階の通路から見下ろしたねぶた。高さは台車を含めて5メーターと定められています。

さらに横幅は9メーター、奥行7メーター、重さは4トン以内となっているそうです。

これも迫力は十分にありますね。

これは明るいと思ったら、釈迦が生まれた時の模様を描いたものでした。

この人形は、半身を開いて照明の当て方を見せています。

壁には歴代の”ねぶた師”の代表作品が飾られています。

ワ・ラッセの後ろはすぐ海となっています。

ここにはトンネルが出来て廃業した青函連絡船「八甲田丸」が係留保存されています。

					

いやあ、満足です。さすがはねぶたを代表する青森の作品でありました。こうして3大ねぶたを一気に見てみたわけですが、それぞれに工夫があって素晴らしかったですね。

さて、列車の時間まではまだ間がありますが、そろそろ新青森駅に移動しましょう。新幹線が通るのは青森駅ではなくて新青森駅なのですが、そこまでのたった一駅の移動のアクセスに時間がかかるのです。新青森駅に着いて、朝来た時にコインロッカーに入れておいた荷物を引き出します。三大丸山遺跡を見るのに荷物があると邪魔なので、ロッカーに預けておいたのです。青森のお土産{ねぶた漬け」や「リンゴパイ」を購入したり待合室で少し時間をつぶしたりしてから、PASMOで改札をタッチして新幹線のホームへ上がります。今回、「駅ネット」でチケットを購入してPASMOにひもつけをしておいたのです。うまく動作するのか不安がありましたが、大丈夫、ちゃんと作動したようです。

新幹線に乗って、およそ1時間で盛岡に到着しました。
今夜はここに泊まるのです。またもPASMOでタッチして改札を通り、駅前にあるという「アートホテル」にチェックインしました。今夜の夕食は、岩手の海鮮を楽しめる居酒屋をネットで2,3軒ピックアップしてあるのでそのどれかに行ってみようと思います。

シャワーを浴びて、お店を最終的に見比べて「おおいし」さんに行くことに決定しました。
ホテルからは歩いて8分くらいです。ありました。予想通りのたたずまいで、期待したよりも大きなお店でした。でも居心地は良さそうです。風呂上りなのでまず生ビールをもらい、メニューをじっくりとえらばせてもらいます。刺身は・・・・ニョーボの好きなホタテでしょ?それと私が好きなホッキね、あとサワラがあったらもらおうかな、であとは適当に盛り合わせてもらって。お、姫竹がある!これは焼いてもらいましょう、それから・・・・・というわけで、詳細は写真でどうぞ!


刺身の盛り合わせはホタテとホッキ、サワラを入れてお願いしました。

これは北海道ではいくらでもある姫竹。根曲竹ともいいます。焼いてもらいました。

牛タンの塩焼きです。

お酒は「浜千鳥」をもらいました。

アスパラの天ぷらも今がシーズンですね。

ホヤの刺身です。これを忘れてはいけません。

締めのおにぎりです。

私はイクラをもらいました。

うん、美味しかったしいいお店でした。好みの地のものだけをもらって、しかも値段は東京の半額程度。また今度盛岡に来ることがあったら、この店に寄りたくなりました。

ゆったりと満ち足りた気分になってホテルに戻りました。
さあ、明日は盛岡を観てから東京に戻りま〜す。

 

●第4日目:5月23日(木)
旅行最終日の朝です。今日もいい天気です。ホテルの部屋で昨夜買ってきた朝食をいただきます。

さて、ホテルを出て向かったところは盛岡城跡公園です。歩いて行けない距離ではないのですが、時間を節約するために市内の観光循環バス「でんでんむし」に乗ろうとバス停を探したら、運航開始まで1時間以上あるじゃあないですか。いま朝8時ちょっと前なのですよ、9時に駅を出発するだなんて役所や銀行じゃあるまいし、観光客を馬鹿にしていますよ。仕方がないので近くのタクシー乗り場からタクシーに乗りました。

親切なタクシーの運転手さんに案内されて到着したのは城跡公園(しろあと公園)の入口。最初、「城址公園(じょうし公園)までお願いします」と言ったら通じなくて(城跡公園(しろあとこうえん)のことじゃろ」といわれてしまいました。城跡と城址、どちらも「しろあと」という意味は同じですが、あえて使い分けをするならば、同じ「しろあと」でも石垣が残っている場合には「城址(城趾)」、現在何も残っていない状態で「昔はこの場所に城があった」という場合は土台も残っていませんので「城跡」を使います。実際の状態は石垣しか残っていないので私の「城址公園」で正しかったのですが、「地名」としては「盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん」だったので、結局運転手さんのほうが正しかったということなのでありました。

しろあと公園とは、その名のとおり昔盛岡を治めた殿様の居城があった場所のことです。南北朝から戦国時代にこの地を治めていたのは南部氏でしたが、代々三戸(さんのへ)に居城を持っており盛岡に住んでいたのは南部氏の家臣の福司氏で、そのため盛岡一帯は570年の間不来方(こずかた)と呼ばれていました。1588年(天正16年)、南部信直(なんぶのぶなお)(初代盛岡藩主)は斯波氏(しばし)を滅ぼし、1590年(天正18年)には豊臣秀吉(とよとみひでよし)から、南部七郡の領有を認められます。翌1591年(天正19年)、秀吉の重臣浅野長政(あさのながまさ)の助言により、信直は三戸(さんのへ)から不来方(こずかた)に居城の移転を決定。1609年(慶長14年)から1612年(慶長17年)にかけて中津川両岸が上の橋・中の橋・上の橋で結ばれ、城下町の建設と整備が進められました。以来盛岡は、江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え、現在の盛岡市へと引き継がれます。明治の廃藩置県の後、城は1872年(明治5年)には陸軍省所管となり、1874年(明治7年)に城内建物はほとんど取り壊されました。いまでは天守閣すら残ってはおらず、ただの石垣のある見晴らしの良い小高い丘の公園となっています。


ここが盛岡城址公園です。右の坂を上ります。

坂を上ったところ。昔は遠くの山裾まで見渡せたことでしょう。

日清戦争中満州で戦死した南部家42代当主 南部利祥氏の像があったらしいが戦争中銅として供出。

有名な「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」の歌碑がありました。

文字は啄木の親友で言語学者の金田一京助の書。


二の丸から本丸へいたる道。

公園内を流れる小川。

これで城跡公園の見物は終了です。
このあとは公園内の一角にある、「もりおか歴史文化館」を訪ねたいと思います。盛岡の歴史と文化に関する資料を展示紹介するとともに、まちなかの情報を提供する施設として2011年(平成23年)7月に開館したそうで、2階は歴史常設展示室「歴史と文化の回廊」として、盛岡の歴史や文化に触れる6つのコーナーで構成されているとのことです。


江戸時代から続く300年の歴史を持つ盛岡山車が展示されています。

盛岡を代表する祭りであり、季節の風物詩であるチャグチャグ馬コ。

これが在りし日の盛岡城の再現模型です。

江戸時代から伝わる具足。

戦国武将で大名黒田官兵衛ゆかりの「合子形兜」の実物が展示されていました。

1822年の大砲。盛岡藩で使用されていたものです。

江戸時代の町屋も再現されています。

さて、次にいきましょう、石川啄木の記念館が工事中で閉鎖されていたので「岩手銀行赤レンガ館」です。
この建物、岩手銀行赤レンガ館は、1911(明治44)年に盛岡銀行の本店行舎として落成し、1936(昭和11)年に岩手殖産銀行(のちに行名を岩手銀行に変更)がこの建物を譲り受け、本店として利用しはじめました。その後、1983(昭和58)年に岩手銀行新社屋完成に伴い中ノ橋支店となりました。
設計は東京駅でも知られる、辰野・葛西建築設計事務所によるもので、辰野金吾が設計した建築としては東北地方に唯一残る作品です。2012(平成24)年8月に銀行としての営業を終了し、2016(平成28)年7月から一般公開されています。


市内を流れる中津川です。

ほら、見えました。これです。

中に入ってみました。渋いですねえ。

これが天井です。鉄と木と漆喰の組み合わせです。

2階から見下ろした1階のホールです。

1階の会議室から。外に庭が見えます。

表から見た窓。古いガラスなので景色が歪んで見えます。

正面から。

さあ、見るべきところはひととおり見たし、あとは東京に帰るだけです。
おっと、「食べるべき」ものがひとつ残っていました。それは「盛岡冷麺」です。もちろん「わんこそば」も有名ですが、そっちは以前に仕事で来たときに「東屋」さんだったかな、そこで90杯食べているのですよ。ですので残っているのは盛岡冷麺は普通の冷麺とどう違うのかを検証するということだけです。
今度は動いている「でんでんむし」バスに乗って一旦ホテルに立ち寄って預けておいた荷物をピックアップします。PASMOが使えました。良いバスです。
ぶらぶらと歩いて向かったのは駅前の「ぴょんぴょん舎」です。

着いてみると、昼時と言うこともありますが、並んでいるのは修学旅行生の団体ではありませんか。私たちの前に7組、45人もいます。む〜今どきの学生は贅沢じゃのう・・・などとつぶやきながら、仕方ないのでそのあとに並びます。さすがに3階建ての駅前通り店はだてじゃあない。思ったよりも早く、20分ほど待っていると私たちの番が来ました。

焼き肉とセットになった盛岡冷麺と単品の冷麺、それにちょっこしビールを頼みました。辛さはキムチを麺に混ぜないで別添えにする「別辛」にしてもらいました。

結果として、冷麺はスープや麺も都内で食べる冷麺と変わりはなく美味しいことは美味しいのですが、特に盛岡らしいところは見つかりませんでした。韓国風冷麺はそば粉で作り、盛岡冷麺は小麦で作るという違いがあるらしいのですが、言われなければ違いには気が付きません。


ビールと焼き肉と冷麺と言う組み合わせを頼みました。

さあ、来ました、ナシと玉子ときゅうりと牛肉が入っています。キムチは別添えです。

キムチを少し混ぜてみました。

ともあれ、これで冷麺も食べたし東京に帰るとしましょう。
冷麺で結構時間を取ったので列車の時間まであと1時間くらいです。
ふたたび改札でPASMOをピッとして新幹線ホームに上がりました。私たちの列車は「こまち32号」です。盛岡が始発で、「はやぶさ40号」と盛岡で合体して東京へ向かいます。

東京着は午後5時7分でした。
大丸デパートの地下でお弁当を買って帰りましょう。長い旅行でしたが楽しかったですね。前から行きたいと思っていた盛岡を見ることができました。

=> Outing Topへ