<Visit to Yamagata>
2024年9月21日〜23日:米沢市/山形市の旅

9月の3連休を利用しての家族旅行、今年は初めて山形県の米沢市と山形市に行くことにしました。
旅行の目的は、かねてから興味があった「冷たいラーメン」に「肉そば」「鳥中華」などを食べてみみたいと思ったからです。かつて山形県にはかみのやま温泉に宿泊して山形市内で会議をやったことが2度ほどありますが、どちらも仕事で出張したため自由に見物することは出来ませんでした。ですので自由に歩き回るのは初めてとなります。

今年も、ネットのホテル予約サイトで山形県米沢市と山形市内のホテルを予約して自分の車で往復するプランです。一日目に米沢を、二日目に山形を見学してから、三日目は山寺へ移動して天童で鳥中華を食べて東京に戻ってくる予定にしました。

その結果の日程は;

9月21日(土)
車で東京=>米沢、米沢到着後道の駅十割庵」でお昼。続いて大町の酒造「東光」を訪問。市内のホテル「セレクトイン」泊。夕食は駅前の「黄木」で米沢牛のすき焼き。
9月22日(日)
米沢を出発して、山形へ移動して「栄屋」で「冷やしラーメン」を食べた後山形城址など市内見物。山形グランドホテルにチェックイン、夕食は山形「長屋酒場」で山形料理。
9月23日(月)
山形市内を出て山寺へ移動、その後天童市内の「水車生そば」で鳥中華の昼食後山形蔵王インターから東北道経由で帰京。

となりました。天気が良くないうえに3日間の強行軍ではありますが、山形の食を味わうグルメ三昧の旅となりそうです。
今回の旅行代金ですが、走行距離約830kmの交通費が高速代16,090円+ガソリン代が44.16リッター(18.8km/L)で7,063円、2軒の宿泊費37,992円、そして3日間の食事代が43,104円と入場料などが3,700円で総額107,949円(お土産代を含まず)でした。

 

●第1日目:9月21日(土)

さてどんよりとした雲が広がる土曜日、朝6時半に自宅を出発して首都高速で多少渋滞はありましたが東北道に乗り、蓮田サービスエリアで朝食をとりました。例によって表のラーメン専門店の鶏白湯ラーメンが11時をすぎないと開店しないので、フードコートに入って私が醤油ラーメンで女房は柚子塩ラーメン、息子はカツカレーを注文しました。これが醤油ラーメンです。

こちらがゆず塩ラーメン。醤油ラーメンも柚子塩ラーメンもスープが美味しくできていて、これで麺がもっと細ければさらに美味しかったと思います。

これは息子のカツカレー。辛さは適当でカラッと揚がったカツも美味しく結構なチョイスでした。今度は私もカツカレーにしようと思います。

東北道をひたはしり、福島ジャンクションから米沢へと向かいます。途中から雨が降ってきました。

米沢市に到着したのは11時でした。お昼には少し早いので市の中心部にある「伝国の杜」に行ってみます。隣には上杉神社があります。この博物館は米沢城本丸跡地でもある松が岬公園に隣接された博物館で、武家として栄えた上杉家ゆかりの貴重な品々を所蔵しています。 「伝国の杜(でんこくのもり)」という名称は、かつての米沢藩主「上杉鷹山(ようざん)」が、藩主の心得として残した「伝国之辞(でんこくのじ)」に由来しています。戦国武将として名をはせた初代「上杉謙信」とは対照的に、鷹山は「優秀な政治家」でした。弱冠十七歳で米沢藩の藩主となった鷹山(当時の名前は「治憲(はるのり)」)は、傾いた藩の財政を立て直し、産業を発展させることで人々を豊かにし、次世代のための教育にも熱心な「思想も実行力もある」人物だったのです。「伝国之辞」自体は「藩主(政治家)に対しての言葉」ですが、「人々のために残し、伝え、豊かにする」という鷹山の精神を受け継ぎ、「伝国の杜」という名称となったとのことです。館内のみどころは、なんといっても国宝「上杉本洛中洛外図屏風」。京の都の日常風景を描いたこの屏風は、織田信長から上杉謙信へ送られたものと伝えられています。約2,500人もの人物が身分を問わず描かれ、さらには動物や植物、名所や祭りなど当時の京都の様子を伺い知ることができます。その他にも『成せばなる 成さねばならぬ 何事も』の名言を残した九代目米沢藩主・上杉鷹山公の功績を振り返る展示があり、上杉家の歴史と米沢の文化を知ることができます。


「伝国の杜」という山形文化ホールと米沢市上杉博物館を合わせた建物の外観です。

丁度、鷹と馬にちなんだ展示がされているようです。

中に入ると、正面に能舞台がありました。空気浮上式でホール内に移動できるそうです。

当時の武士と農民の様子を見ることができます。


米沢城の内部をデジタルで見ることができます。

これは上杉家の家紋。『笹竹丸に雀』と呼ばれます。

測量器具。

これが信長が謙信に贈ったとされる「洛中洛外図」(その1)。

「洛中洛外図」(その2)

続いて隣の上杉神社に向かいます。上杉神社はここ松が岬公園に位置し、戦国最強の武将と語り継がれている上杉謙信を祀る神社です。旧社格は別格官幣社であり、江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつです。鳥居の向こう側の森の中が上杉神社です。

鳥居をくぐったところに上杉鷹山の像がありました。上杉鷹山は、江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩9代藩主であり山内上杉家25代当主であります。諱は初め勝興を名乗り、後に治憲(はるのり)と変更をして、鷹山は藩主を隠居した後の号であるが、この名で良く知られています。財政ひっ迫で苦しむ米沢藩政の改革を行った江戸時代の名君として知られています。

米沢藩中興の祖である上杉鷹山は、現在の米沢市民にも尊敬されています。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがおおいのですが、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多いといいます。その例がこの銅像の説明文です。

有名な「なせば成る」の石碑がありました。

神社の手前左側にある上杉伯爵邸は、明治29年に元米沢城二の丸跡に上杉家14代茂憲(もちのり)伯爵邸として建てられました。当時は敷地約5,000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅でした。現在は料亭として使われています。

直江兼続は、米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。関が原敗戦後、上杉家の米沢移封に伴い執政として米沢城下を整備。現在の城下町米沢の基盤を築きました。
写真は上杉景勝と並ぶ直江兼続が並んでいる像。

鳥居の奥に見えるのが上杉神社。上杉神社は、戦国時代の名将で米沢藩の藩祖として崇敬されている上杉謙信を祭神としています。上杉謙信は毘沙門天を篤く信仰しており、「毘沙門天の化身」とも呼ばれています。上杉神社は、開運招福や諸願成就、学業成就、商売繁盛のご利益があるとされ、パワースポットとして知られています。?

上杉神社は、米沢城本丸跡に建立されており、境内には上杉氏ゆかりの文化財を収蔵する「上杉神社稽照殿」があります。稽照殿には、上杉謙信の遺品や、直江兼続の兜など、上杉家由来の宝物約300点が展示されています。?
神社の参道にある舞鶴橋には、「毘」と「龍」という文字が書かれた軍旗が掲げられています。「毘」は上杉謙信が毘沙門天を信仰していたことに由来し、「龍」は不動明王を表しています。

上杉謙信を祀った上杉神社。

上杉謙信の銅像。

独眼竜の異名で有名な、仙台藩初代藩主・伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生まれ幼少期から青年期(25歳)まで米沢城を居城としていました。政宗は、天正12年(1584)に18歳で家督を継ぎ、米沢城主となります。

そろそろお昼を回りました。予定していた肉そばを食べに行きましょう。
向かうのは、道の駅米沢にある「十割庵」と言うお店です。ここの名物の冷たい肉そばをいただきます。

冷たい肉そばとは、山形絃の河北町発祥と言われる郷土食で、近年ではB級ご当地グルメとしても注目を浴びました。現在、冷たい肉そばは、河北町だけではなく山形県の村山地方を中心に幅広く提供されております。

鶏ダシで醤油味の、冷たい汁そばです。乗っている具は肉といっても、豚でも牛でもなく、鶏肉(親鳥)を使っています。コクのあるダシに負けないようなコシの強い田舎蕎麦が特徴。そばの上には、コリコリとした食感がくせになる『親鳥』と小口切りの『ねぎ』がのるシンプルかつ奥深いそばです。
素朴でありながら一度食べるとまた食べたくなる・・・長い間地元の人々に愛され続けてきた故郷の味です。でも、なぜ温かいそばではなく、冷たいのか?という疑問が残ります。その理由は、冷たければそばが伸びにくいからだそうです。肉そばを頼んで、まず上にのった肉をつまみに一杯。最後にそばとつゆで〆る、だから汁が冷たければ時間が経っても最後まで美味しく頂くことが出来るというわけです。


ここが名物の肉そばです。

そばの太さは普通ですね。

ついでに米沢ラーメンも一杯食べてみます。

ちぢれが強い麺です。

同じ建物内にあるお土産屋さんを見て回ります。安かったのでシャインマスカットを買ってみます。

外は土砂降りですがかなりの人でにぎわっています。

駐車場では日光猿軍団のショーをやっていました。

相変わらず雨が降っていますので屋外ではなく屋内の見物をしたいと思います。が、メインの上杉博物館はもう見てしまったので、酒蔵「東光」に行ってみることにしました。
道の駅からは10分くらいのところです。(写真はホームページから拝借しています。)

中には直売所があります。せっかくの機会なので「東光」のひやおろしを購入してまいりました。

さて、ちょっと早いですがホテルに入りましょう。
今夜の宿は「セレクトイン米沢」というところです。ここはシンプルなビジネスホテルでしてあいにくトリプルルームがなかったので、ツイン1室とシングル1室という構成で予約を取りました。部屋も狭くて4階建ての2階の部屋をアサインされたのですが、目の前がホテルの駐車場になっていて止めておいた車が見えるので安心と言えば安心です。
(左の写真はホームぺージからお借りしました)

部屋にはいったらシャワーを浴びてさっぱりしました。
本日の夕食は、少し離れた米沢駅前の「黄木」と言う牛鍋の店を予約してあります。フロントで聞くと歩いて行くには距離があるということなのでタクシーを呼んでもらいました。7-8分くらいで到着してお店に入りました。


6000円の牛鍋のコースです。

各自にひとつづつの鍋が付きます。

グツグツと煮えています。

酒のつまみに牛のマクラ(二の腕のところ)の塩焼きをもらいました。

これは牛筋の煮込みです。
デザートです。

お店の入り口です。

駅前なので駅まで歩いてタクシーを拾いました。

部屋に戻って昼間買っておいたシャインマスカットを冷蔵庫から取り出して食べてみます。
皮ごと食べられてタネもない、さわやかな甘さが口中に広がります。初めて食べてみましたが、さすがに美味しいものですね。

窓の外は雨が降り続いています。明日も雨模様だそうです。台風に当たらなかっただけ良しとしましょう。最終日には晴れる見込みです。

 

●第2日目:9月22日(日)

朝雨が覚めてカーテンを開けるとやはり昨夜の雨が降り続いています。

さて、このホテルは朝食付きと言うことなので顔を洗って階下に降りて行きます。食堂にはカレーの香りが立ち込めていました。ご飯とパン、それにかんたんな副菜が並んでいます。カレーも少しもらってみます。


これが朝食の食堂。ご飯とみそ汁など完全セルフサービスとなっていました。

ホテルを9時にチェックアウトして、一般道を北上して山形市を目指します。

山形の市内に入ってお昼には少し時間があるので「山形まるごと館 紅の蔵」を覗いてみることにしました。ここにはレストランやカフェもありますが、山形の名産のベニバナを使った逸品の展示やお土産屋さんが集まっています。


ここが「紅の蔵」です。民芸品を展示しています。

江戸時代に「最上紅花」の名で知られた山形の特産品紅花の栽培から収穫、紅餅に加工する作業や
上方へ運び取引する様子を描いた屏風。出羽国村山郡六田村(現東根市)生まれの青山永耕筆。

道路の反対側には「JAやまがた美味しさ直売所」というのがありましたのでそちらも覗いてみました。
冷やしラーメンなどいくつかお土産を購入したところで良い時間になりましたので、お昼を食べに移動します。移動した先は「栄屋本店」という蕎麦屋さん。ここは山形の有名な冷やしラーメンの発祥の地なのです。前代未聞の冷たいラーメンはお客さんの「夏には冷たい蕎麦を食べるんだから、ラーメンも冷たいのが食べてみたい」の一言にヒントを得て生まれたそうです。昭和27年に約一年の歳月をかけ、冷たいスープでも油がかたまらないように改良された、さわやかで風味豊かな「元祖 山形名物冷しらーめん」が完成したというのですから、私が生まれる1年前にもう冷やしラーメンが出来ていたことになりますね。


栄屋の前で順番を待つひとの列です。

スーツケースを持った観光客が多いですね。

店内にずらりと並んだ色紙に注目。

当然ながら店内は満席です。

メニューがありました。

これが元祖冷やしラーメン。

冷やし和風ラーメンです。

冷やし鳥中華ももらってみました。そばつゆにラーメンを入れたものです。

麺は中太のストレートな中華麺でした。

さて、お腹も満足したので城跡公園に向かってみます。
霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、約35.9haの面積を有する山形城跡を整備した都市公園です。延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したのが始まりと伝えられ、現在の城郭は第11代城主最上義光(1546〜1614)が築いたものが原型とされています。本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れて見えなかったことから「霞ケ城」とも呼ばれていました。現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後、元和八年(1622)に城主となった鳥居忠政により整備されたと伝えられています。

お城のアクセスは二の丸北門から入ります。そして中の道路を通って県立体育館の前に車を停めるのが良さそうです。そこからだと本丸一文字門がすぐ目の前です。


ありました。目の前に見えているのが本丸一文字門です。

本丸一文字門はこの絵でいうと右下に見える門になります。

門に近づいてみました。

こちらが正面入り口です。

これは昔の井戸ですね。

天守閣こそ残ってはいませんが、再現されたわずかな遺跡から在りし日の霞城が目に浮かぶような気がしました。

もう一か所、ここには「山形市郷土館」という建物がありますので見てみましょう。

山形市郷土館として使用されているのは「旧済生館本館」というたてものです。「旧済生館本館」は、明治11年9月に竣工した擬洋風の病院建築物です。最初は県立病院として使用され、その後、明治21年に民営移管となり、明治37年からは市立病院済生館の本館として使用されました。創建当時は医学校が併設され、オーストリア人医師・ローレツが近代医学教育の教鞭をとったことで知られています。

欧米の建築を日本の職人が真似て建築した「擬洋風建築」が特長。建物を象徴する三層楼は、1層目が8角形で石敷きのベランダ、2層目は16角形の広間があり、ドーム型の緑色の屋根が特長。非公開の3層目は、8角形の小部屋があり広いベランダが取り付けられています。外観は3層なのに内部は4階建てと複雑な構造。日本古来の木造建築技術があるからこそできる職人の高度な技が伺えます。1層目を中心に囲まれた回廊は14角形のドーナツ型。この独創的な建築形態は、横浜にあるイギリス海軍病院を参考にしたのだといいます。

内部の装飾も見ごたえあり。細部を見ると洋風、和風の要素があちらこちらに。色とりどりのガラスを組み合わせて作られたアーチ型のガラス、特にケヤキで作られた螺旋階段の側面には、唐草模様の装飾が彫られています。洋風と和風がコラボレーションしているのですね。

昭和41年12月5日に国の重要文化財に指定され、それに伴い霞城公園内に移築復元の運びとなりました。昭和44年に移築復元工事が完了し、管理棟を付設のうえ昭和46年に「山形市郷土館」として新たに出発しました。
現在、1〜2階を一般に公開し、郷土史や医学関係資料を展示しています。


正面から見るとやや異様な造りになっています。

横後ろからみたところ。

こうして中庭から見るかぎり、三層構造にしか見えないことが分かります。


2階から3階へは螺旋階段が設置されています。

1階には医学関係の展示物がおかれています。

結構設備が充実していたことが分かります。

ならんでいるのは内視鏡です。


入り口部分です。

正面には建物の名前がありました。
拡大してみたら、確かに「再生館」という文字が見えました。

郷土館はここまで。では、霞城に戻って「二の丸大手門」に行きましょう。
ここは山形城の二の丸の大手(正面)に当たるので「二の丸東大手門」と呼ばれます。
枡形と呼ばれる広場を中心に、櫓門や続櫓、高麗門及び土塀で構成された枡形門と呼ばれる形式で、本丸一文字門も同様の構造になっています。
山形城は、本丸及び二の丸が城郭の中心部となっていたため、軍事的な機能だけでなく、藩主の威厳を示す役割も有していました。復原にあたっては、最も資料が残る江戸時代中期・城主堀田氏時代の姿で復原されたそうです。


「二の丸大手門」に到着しました。これは城内からみた姿です。

馬に乗った像は城主「最上義光公」の姿です。

大手門の裏側から見た様子です。

そしてこれが大手門の正面です。

山形城の外には、「最上義光歴史館」がありました。
山形の町の土台を築いた11代城主最上義光と山形城の資料を展示する資料館です。館内には義光が上杉勢との長谷堂合戦の際に身につけていた、弾痕の跡が残る兜や甲冑、指揮棒などの遺品や、長谷堂合戦図屏風、山形城本丸のふすま絵等の絵画類や調度品など、貴重な資料が多数展示されています。

残念ながら、館内の撮影が禁じられていましたので外観のみの撮影です。

さて、これで山形市内の観光を終了してホテルに向かいます。
今夜の宿泊先は、「山形グランドホテル」です。市の中央部にあり、観光に便利なホテルです。

このホテルでは前夜とは異なりトリプルルームを取ることができました。広さも十分で快適に過ごせそうです。シャワーを浴びてから夕食に出かけることにします。

予約を入れている店は山形駅前です。ホテルからだと歩いて15分くらいですが、ホテルそばから駅まで循環バスが出ているというのでそれに乗ることにしました。
バス停に着いてほどなく「紅ちゃんバス」がやってきました。料金は100円です。すぐに駅前に到着しました。今夜のお店は山形駅のすぐ前にありました。
『ここ一軒で山形県』の白い看板と迫力あるわらじの看板が目印です。 ここでは地場の旬の食材を多用した山形郷土料理と、毎晩20時からのスタッフによる山形伝統芸能「花笠踊り」の実演が自慢だそうです。 山形の各地方の気候が育む豊富な食材と、地元に根付いた郷土料理を一度に堪能できるらしいです。 また、山形全49蔵の地酒や稀少酒もあるそうで期待が高まります。


ここが「ここ一軒で山形県」を満喫できると自慢する「長屋酒場」です。

お通しがなんとすき焼きと湯豆腐の2種類の鍋でした。

すき焼きは蔵王牛を使っっているのだそうです。

地酒。「出羽桜」をもらいました。

まずは「だだちゃまめ」から。

そして「玉こんにゃく」です。

「車麩の玉子とじ」。

「ゲソの天ぷら」は塩とカレー粉でいただきます。

サクランボの漬物と焼き味噌」。

ベニバナのサラダ」。

板そば」。

8時になったら客も店員も一緒の花笠音頭が始まりました。

いやあ、たのしかった、美味しかった。
満足して帰りはぶらぶらと歩いて帰ることにしました。

今夜宿泊するホテルは山形グランドホテルです。
部屋は一応トリプルルームとなっていますがそうは言っても完全なスリーベッドではなくツイン+ソファベッドなのですが、全員が同じ部屋に泊まれるだけましというものです。部屋は道路に面していて、カーテンを開けると目の下に商店街が広がっています。

この部屋は広くていいですね。なんといっても前日のホテルは狭かったですからね。
今夜はよく眠れそうです。

 

9月23日(月)

朝起きてカーテンを開けてみます。雨は上がっていて、青空にこそなっていませんが、天気予報によるとこれから晴れて気温も上がるようです。良かった。


道路の反対側は商業地区です。

これが私たちの部屋。

ベッドが2つとソファーベッドがひとつ並んでいます。

さて、目が覚めたのは8時過ぎです。
このホテルでは朝食がついていませんので、チェックアウトしてから車で走りながら探して食べることにします。

朝から営業している店というと、牛丼チェーン店くらいでしょうか。すると、スマホで検索していた息子が「めしや亭」と言う食堂を見つけました。そばやうどん、ラーメンなどとともに総菜を選ぶことができるいわゆる「食堂」です。

そこへ立ち寄って焼きサバ定食やアジフライ、玉子焼きなどを食べて、今日の予定は「山寺」へいくことです。

「山寺」は正式名称を宝珠山立石寺といい、天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げて寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤めました。比叡山延暦寺は、平安の都(現在の京都)の鬼門(北東)を護るために創建されましたが山寺立石寺も同様に国家を鎮護し、大和朝廷による東北地方の経営の拠点として創建された寺院なのです。
開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯した不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。その後鎌倉期に至り、300人の僧坊をかかえて大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれて衰えた時期もありました。江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。元禄二年(1689)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しています。
また本堂とされる根本中堂は、延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されています。堂内には、慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼き打ちによって延暦寺を再建したときには逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を見ることができます。

我々は山寺の町に入って「山寺登山口」の真前にある「ふもとや」というお店の駐車場に300円払って車を置かせてもらい、登山口の階段を上ってまず立石寺根本中道(本堂)のお参りをしました。つづいては左方向に進んで貞明皇后記念碑、山寺日枝神社、立石寺宝物殿の前を通って松尾芭蕉と曽良の像を見て立石寺山門に到達しました。


ここが入り口、立石寺登山口となります。この階段を上ります。

これが「立石寺根本中堂」です。国内最古のブナ材木造りと言われています。

ここで最初のお参りをします。ここにある法灯は1200年のあいだ灯し続けられているそうです。

清和天皇はこの寺の建立を円仁に依頼した天皇であります。

松尾芭蕉の有名な句ですが、ここだったのですね。

たくさんのお地蔵さん、なぜここに?水子供養なのでしょうか。

山寺日枝神社。貞観2年(860)天台宗の円仁が出羽国山寺に大宮山王権現と称して建立したもの。

松尾芭蕉(左)と弟子の曽良(右)の像。

阿弥陀如来も祀られていました。

ここが山門。この奥に大仏殿のある奥之院まで1,015段の階段があるのです。

山門の事務所で入場料300円を支払って登り始めます。
大体往復で見学を含めて1時間半くらいかかるとのことです。ではいきましょう。


これが入場券です。

さあ登り始めました。最初は階段ではなく坂道です。


階段のわきに地蔵様の彫り物がありました。


まさに断崖絶壁であります。百状岩と呼ばれています。

ここに尾芭蕉の句をしたためた短冊が納められています。

ようやく建物が見えて来ました。

性相院と言う建物です。

五大堂が見えます。隣の小さなお堂(納経堂)の下に、円仁の墓があります。

山の上にこんな集落があるとは驚きます。

入場券の裏に印刷されていました。

奥の院と言うとたいていはお堂がひとつあるだけなのですが、よくもこんな山の中にいくつものお寺をつくったものです。ちゃんと電気も来ていますが、別にケーブルカーを施設してあるわけでもなく、裏に地上へ降りる道路があるわけでもないのです。と言うことはお寺を作る資材は全て人力で担ぎあげたということでしょうか?
いずれにしても、これだけの建物があるということはそれだけ多くの人が住んでいたということです。かつて江戸時代までは、12の塔中支院があり、300人程の修行僧がいて修行に励んでいたといいます。今は性相院・金乗院・中性院・華蔵院の4つの院が、その面影を残しています。

上に登って中性院でひと休みをしてから、ここのなかで一番の見晴らしを誇る五大堂へと降りて行きます。ここは五大明王を祀ってある、天下泰平を祈念する道場です。


正面に山寺の駅が見えます。

左奥を進むと仙台に抜ける峠道となります

これが五大堂ですか。堂々とした建物ですね。

ここにもお地蔵さんがいっぱい。


帰りのほうが下りなので、手すりがないとちょっと怖いです。

弥陀洞。壁一面に彫り物があり雨風が直立した岩をけずり、阿弥陀如来の姿をつくり出したもの。

帰りは同じ道を通って戻ってきました。
山門を出ると多くの人は右へ進みましたが、我々は登山口の前に車を置いてあるのでそちらまで戻ります。車を停めた土産物屋さんで買い物をしたので、先ほど払った300円を返してもらいました。

さて山登りをしたので、お腹が空いてきました。
カーナビに天童市の「水車生そば」さんの電話番号を打ち込んで山寺をスタートします。目的地まで8キロメートルくらいですね。たいして遠くはありません。15分くらいで到着しました。

このお店、駐車場に入って空いていた最後の場所を先に入った車にとられてしまった、と思ったら道路の向こう側に広い2階建ての自走式駐車場がありました。7割がた埋まっている駐車場に止めて列に並びます。10分くらい並んだところで我々の番となりました。


こちらは裏口のほうですが、人が並んでいます。

鳥中華と板そばのポスターが貼ってありました。

店内は例によって満員です。

これが元祖鳥中華。50年前にまかないとして食べていたラーメンが話題になってメニューに載せたら大ヒット。

麺は中華用のラーメン、汁は日本そばの鳥だしです。

こちらば表玄関。

うん、なかなか美味しかったです。
そばも食べてみたいところですが、鳥中華が結構ボリュームがありましたのでお腹いっぱいです。

さあ、これで山形見物もおしまいです。東京に戻りましょう。

大した距離ではないので、高速に乗る前に山形市内に戻って牛肉を買って帰ろうというのが今回の旅行の最後のミッションとなっています。実は前夜、長屋酒場に行く前に時間があったので駅ビル内の食品屋を見て歩いていて肉屋がセールをしているのを見てしまったのです。それで帰りに買って帰ることにしたわけです。結局米沢牛のすき焼き用を500グラム購入してきました。そのほかシャインマスカットや鳥中華も自家用にゲットして買い物ミッション終了、今度こそ東京に向かいます。

街を抜けて、山形蔵王インターから山形自動車道酒田線に乗って東へ移動し、村田ジャンクションで東北自動車道を南下します。

羽生パーキングエリアで夕食を取り、加須を過ぎたあたりから渋滞が始まりましたが、三郷料金所を通過したのが9時半、そこからはスムーズで10時前に平井で高速を降りることができました。

以上で2泊3日の、中身が濃い山形のグルメ旅のご紹介を終わります。
さて、次回はどんな旅になるのでしょうか?どうぞ、ご期待ください。


					

=> Outing Topへ