<Visit to Yamato & Shiogama>
2022年3月19日〜21日:山都町/塩釜市の旅

3月の3連休を利用して、昨年に続いて会津の山都町と宮城県塩釜市に行くことにしました。旅行の目的は、そばの町山都町の「寒ざらしそば」と塩釜の魚介をまだどちらも行ったことがない息子に食べさせてやりたいと思った次第です。

去年の旅行記にも書きましたが、寒ざらしそばとは秋に収穫したソバの実を1月初旬の厳寒期に冷たい川水に10日間ほど漬けておき、これを引き上げたら今度は寒風に20日さらして乾燥させてから製粉、製麺するという大変手間のかかったそばです。冷水に漬けて寒風に晒すことでアクや渋みが抜けて甘みと風味が増し、舌触りが良くて弾けるような食感の贅沢なそばとなるそうで、江戸時代には将軍家に献上されていたといいます。

その寒ざらしばを食べることができるお祭りが、今年は3月12日から4月24日まで開催されます。今年も昨年同様、人混みを避けるために町内のそば屋さん5軒に分散して開催されるそうです。昨年は山都町を訪問したのが水曜日でしたので、萬長さんと伝承館でたべたのですが、今回は土曜日なのでどの店も営業しています。まだ未訪問の蕎邑さんと去年美味しかった萬長さんに行ってみようと思います。

今年も、ネットのホテル予約サイトで会津若松市東山温泉の旅館と塩釜市内のホテルを予約して自分の車で往復するプランです。一日目に山都町を訪問して、二日目に会津若松市を見学してから塩釜へ移動、三日目は塩釜から多賀城あたりを見て牛タン定食を食べて東京に戻ってくる予定にしました。

その結果の日程は;

3月19日(土)
車で東京=>会津若松、山都町到着後「喬邑」「萬長」でお昼。続いて会津坂下町の廣木酒造訪問後会津若松市内見物。東山温泉「月のあかり」泊。
3月20日(日)
会津若松市内見物、「えびや」で昼食後塩釜市へ。OYOホテル塩釜松島にチェックイン、夕食は海鮮寿司「塩釜港」。
3月21日(月)
塩釜仲卸市場で朝食、その後市内見物。多賀城市の「利休」で牛タン定食の昼食後常磐道経由で帰京。

となりました。3日間の強行軍ではありますが、会津のそばと三陸の魚介を味わうグルメ三昧の旅となりそうです。

今回の旅行代金ですが、走行距離約952kmの交通費が高速代15,670円+ガソリン代が49.6リッターで8,300円、2軒の宿泊費50,130円、そして3日間の食事代が46,285円と入場料などが5,730円で総額126,115円でした。

 

●第1日目:3月19日(日)

さて青空が広がった土曜日、朝7時に自宅を出発して多少渋滞はありましたが東北道に乗り、蓮田サービスエリアで朝食をとりました。表のラーメン専門店の鶏白湯ラーメンが気になったのですが、10時をすぎないと開店しないので待っては「いられません。フードコートに入って私と女房は柚子塩ラーメン、息子はチキン南蛮定食を注文しました。

とはいえ、柚子塩ラーメンもスープが美味しくできていて、これで麺がもっと細ければさらに美味しかったと思いますが、多分麺は醤油ラーメンと共通なのでしょう。

東北道から磐越道に入ると、道路の両側に雪が見えてきました。今年は、去年よりも雪が多く残っています。それだけ降雪量が多かったのでしょう。

会津坂下(あいづばんげ)インターで高速を降りて一般道を山都町に向かいます。まだ町内にも雪があちこちに残っていますね。

最初に到着したのは「喬邑(きょうむら)」さんです。初めてのお店です。去年は定休日にあたっていたために訪問することができませんでした。ここでは「粗びきそば」「田舎そば」「御前そば」の3種類の寒ざらしそばを出しています。3人なので3種類をひとつずつもらいました。寒ざらしそばはどれも1枚1,100円で、イベント参加店の共通価格です。


まだ町内にも雪が残っていました。道路はさすがにアスファルトが出ています。

前回お休みで訪問できなかった「喬邑」さんに到着しました。

店内には「がんばろう ふくしま」の旗が赤べこと一緒にありました。

まずは田舎そばから。

田舎といっても星は見当たりません。

そして御前そば。これはまた見事に真っ白なおそばです。

これだけ白いそばを見たのは、麻布の更科堀井以来です。

そしてこれが粗びきそば。

とても細かい星があり、透明感があるそばです。

3人で3種類のそばをとっかえひっかえ食べくらべましたが、どのそばもレベルが高いですねえ。中でも私が一番気に入ったのが「粗びきそば」でした。言葉のイメージとは異なり、きめ細かくしっかりとしたのど越しと香りのバランスが一番良かった気がします。そして、この店のレベルを高く保っている理由の一つが「汁」でした。そばつゆがとにかく美味しいのです。それを一番感じたのは、蕎麦湯を入れたときでした。温められたそばつゆから立ち上るカツオの香りに驚き、ひとくち口に含んだ時の旨味の広がりにもう一度驚く、そんな汁でありました。この汁で普通のそばと寒ざらしを食べくらべてみたい、そんな衝動に駆られて思わず追加注文してしまいそうになりましたが、もう一軒食べ歩く予定があることを思い出して渋々店を出たのでありました。

さて、「喬邑」さんを出て坂を下り、線路をくぐってから左に曲がってしばらく行くと平屋の黒っぽい建物が見えます。ここがJRの山都駅です。東京から電車で来るとしたら、東北新幹線で郡山まで来て、郡山で磐越西線に乗り換えて山都までですね。3時間半くらいの所要時間らしいです。今回は車で4時間半かかりました。

さて、山都駅前をまっすぐ行ってから線路を超えてさらに東へ行くと「萬長」さんです。前回来て透明感のあるそばがとても美味しかったので、もう一度食べたくてやってきました。店の先の駐車場に車を止めます。地面は出ていますが、奥の雪の山は去年はありませんでした。

ここでは、田舎そばの寒ざらしはやっていないので、御前そばと粗挽きそばをいただきます。もう1枚は普通のざるそばでいいかなとメニューを見ていたら、なんと「高遠そば」があるではありませんか。
そうです、ここは会津ですから。昔、1643年に保科正之という殿様が長野の高遠藩から山形を経由して家来を引き連れて移り住んだところです。もちろん、そば好きの殿様故たくさんのそば職人も一緒に。だから高遠そばが会津にあるのですね。
ちなみに、現在の伊那市高遠町では敢えて「高遠そば」という呼び方はしないそうです。寒冷な伊那地方では稲作が出来ないのでそばの栽培が盛んであったわけですが、江戸時代初期にはまだ醤油も鰹節も広まってはいませんでした。ですから大根をすりおろした汁に味噌を入れてそばを食べていたのです。保科の殿様が会津でふるまったそばも高遠から会津に移り住んだ農民が日常食べていたそばもそうでした。こうして高遠の普通のそばの食べ方が会津に広まったというわけです。その後、日本中で味噌の代わりに醤油がそば汁として一般的に使われるようになって、会津でも醤油が使われましたが大根汁の「高遠そば」はそのまま残ったのです。せっかく会津に来たのですから、ぜひそれをいただきましょう。


ここが前回もお世話になった「萬長」さんです。

はい、これが「粗びきそば」ですね。

ちゃんと星が見えますが、私好みの細打ちなのはいいですね。

そしてこちらが「御前そば」。

去年はもう少し白かったような気がしますが・・・粉のせいかな。

おお、これが「高遠そば」なのですね。

そばには星は見えません。これが普通のそばだとしたら、毎日でも食べたいです。

今の時代、そばに添えられているのは味噌ではなく、醤油です。

そしてこれが大根汁。これに味噌の代わりに醤油を混ぜて食べるのです。

さてさて、私には初めての高遠そばです。
む、かなり大根が甘いですが・・・これはこれで悪くないです。醤油の量はお好みで、と言われましたが、たくさん入れたほうが大根の甘さとバランスが取れますね。個人的にはビリビリするくらい辛い大根が好きなので、辛い大根でも食べてみたかったですけどね。
で、二度目となる寒ざらしそばですが、粗挽きそばは去年感動したほどのそばの透明感が出ていないかなという感じがしました。あの透明なそばを息子に見せようと思って二軒目をここにしたのですけれど、ちょっと違いました。ただ、そば打ちは毎日温度や湿度、粉の水分が変わりますので常に同じそばを打つことはできません。ちなみに私が驚いた、去年の萬長さんの粗びきそばの透明感とはこんな具合でした。

はあ・・・そば2枚のはしごをして、さすがにおなかがいっぱいになりました。
これから会津若松に戻りますが、帰りは一般道で会津坂下町(あいづばんげちょう)を通って帰るので再び県道43号線を南下します。この辺りは、遠くの山はもちろんですがまだ畑にも雪が残っていますね。

会津坂下町(去年は「あいづさかしたちょう」だと思っていました)を通るのはなぜか?それは、ここにはかの銘酒「飛露喜」の醸造元である廣木酒造本店があるからです。もちろん醸造元だからといって地元でさえも入手困難な「飛露喜」をすんなり買えるとは思っていませんが、どんな工場で作っているのか外観だけでも見てみたいところですし、同じ廣木酒造で作っていて地元でしか販売していないお酒で「泉川」という銘柄があるのですが、もしかしたらそれくらいなら買えるかもしれないと期待してのことでした。

ころが廣木酒造に到着しましたが売店らしき建物は真っ暗で営業していません。横のほうに回ってみたときにたまたま木戸から外に出てきた職員らしき人がいたので、呼び止めて聞いてみたら「今日はうちは休みですが、すぐそこにうちがお酒を卸している五ノ井酒店というところがありますので行ってみてください。」と教えてくれました。

その五ノ井酒店さんは廣木酒造さんと同じ通りの100メーターくらい先にありました。お店の隣は広い駐車場になっています。
早速お店に入ってみると、おお壁一面の冷蔵ケースが2棟にそれぞれ1面ずつ備え付けてあります。手前の棟はワインや洋酒ですが、奥の棟にずらりとたくさんの日本酒が並んでいます。ああ、やはりありましたよ「泉川」、ここまで来た甲斐があったというものです。純米吟醸をゲットできました。そして五ノ井酒店さんが地元の曙酒造に依頼して20年前から作っているというオリジナルの「央」というお酒がありましたので、それの「上澄み」を1本、それに会津若松は宮泉酒造の「写楽」の3本を購入しました。

会津坂下町から県道49号線を東に向かい、会津若松市に入りました。
目指すは鶴ヶ城、私たち夫婦は2018年に来ていますが、息子は初めてです。地理はつかんでいるので、城の西側の121号線から天守閣に一番近い駐車場に入ろうとしたら、ありゃ、一方通行でした。北側の北出丸通りのほうから入らなければなりませんでした。
ここにはボランティアの無料ガイドさんがいます。前回もお世話になりました。案内板を見たら、次のツアーは10分後に出るではありませんか。お願いしましょう。案内所に申し出て検温と連絡先を記帳して待っているとすぐにガイドさんが現れました。ほかに客はいなくて我々家族だけです。前回は10人くらいのグループでしたが、ガイドさんによるのか説明内容は全く違っていて、石垣の積み方や徳川家の家紋の違い、天守閣は基本的に倉庫であった、など新たな知識を得ることが出来ました。


鶴ヶ城天守閣です。

これが鶴ヶ城の石垣で一番大きな石だそうです。

それにしてもよくもここまで隙間にあわせて石を削ったものです。

葵のご紋は、将軍家と御三家、会津藩では似ていてもみな違うそうです。
石垣の積み方の変遷

野面積み(戦国時代)      打ち込み接ぎ(安土桃山時代)   切り込み接ぎ(江戸時代)

ガイドさんと別れて天守閣に登ってみます。

この広場が本丸跡です。右手奥にあるのが、千利休の子小庵が作った茶室「麟閣」です。

北側、市役所など会津若松市の中心部が見えます。正面の鉄塔はNTTのタワー。

北東方向、白い電波塔の向うが飯盛山です。

上の写真を拡大しました。墓地が見えますね。

駐車場に降りてきました。遠くの山はまだ真っ白です。

そろそろ5時です。雨も降っているし、寒くなってきたので宿に向かうとしましょう。会津若松での宿は前回と同じ東山温泉。鶴ヶ城からは約5キロの距離です。

やっぱりたまには日本的な温泉に泊まるのもよいですね。
前回泊まった「新滝」も快適でしたが、今回は3人旅なのでもうちょい安いところはないかと探したら、Booking.comが提案してきたのが「サービスを簡素化したエコノミーな宿、月のあかり」でした。受付をしたら部屋まで荷物を運んだり案内はしない、お茶も入れない、布団は自分で敷いてください、というノンサービススタイルの旅館でした。
いいじゃないですか、荷物くらいは自分で持つし、布団を敷くのだってやろうじゃないですか。それでお値段は3割がた安い、ということで予約したのです。
フロントはたった一人、チェックインをして部屋に入るまでは普通でした。部屋は川に面したユニットバス付の和室で、壁のあちこちに擦り傷がありますが広さもあって清潔です。

まずは浴衣に着替えて温泉に入りましょう。まあ、大浴場は一つしかなくてちょっと小さいですが・・・あれ、露天風呂はないんですね。旅館の規模が小さいからなあ。

そして夕食。ラウンジに降りてゆくとテーブルにセットされていましたが6人掛けのテーブルに3人横並びするの?まあ、コロナですからね、仕切りがないだけましか・・・でも座るとせっかくの料理が自分の真っ暗な影に入るじゃないですか。ここ、照明が天井のスポットライトだけでしかも背中の上にあるので、影が目の前にできるのです。せめて、テーブルの反対側に座るように配置すれば自分の影にはならないのに、配慮がないですねえ。

で、夕食は「カツ煮定食」なのですね。それも市内の飲食店からの仕出しです。ソフトドリンクは無料ですが、ビールは自動販売機で500円入れてセルフサービスでグラスに注ぎます。日本酒その他のアルコールはありません。味噌汁はインスタントでポットのところに行って自分で入れることになっています。ご飯だけ電気釜をたったひとりの係の人が持ってきて、あとは自分でやれということです。なるほどなあ、バイキングですらないんですね。


これが宿の入口です。結構いい感じではないですか。

部屋は普通の和室です。(ネット画像借用)

ここは2階。窓の外は川です。

大浴場です。露天風呂はありません。(ネット画像借用)

食事をとるのはこのラウンジ。照明はスポットライトだけ。(ネット画像借用)

照明を背にするので、料理が自分の影に入ります。夕食はこれで全部です。

あっても無くても変わらない小皿。ご飯は自分で勝手によそえということです。

カツ鍋です。自分でソースを入れて煮込み、玉子を割って玉子とじにするようです。

サラダと、デザートのグレープフルーツにパイナップル。

蜆の味噌汁も自分でお湯を入れるのです。白いボトルの中身はカツを煮るためのソース。

トンカツ自体は結構分厚くて、ボリュームがあります。

夜間、窓から外を見ると川がライトアップされていました。

普通の旅館ですと、食事の後は土産物屋をぶらつくのですが、この旅館にはお店がないので部屋に戻って小さなテレビを観るくらいしかすることはありません。ありがたいことに部屋でもWiFiが通じているので、持ってきたノートパソコンを開いて会津若松の観光名所のオープン時間を確認したりして、早めに寝てしまいました。

 

●第2日目:3月20日(日)

私たちが宿泊した部屋は川に面した2階でした。窓の下をすぐ川が流れているのですが、さすがに窓を開けない限り川音はザーザー聞こえないくらい静かなのですが、エアコンのうなり音がブーンと天井に響いていました。寝るにはうるさいのでオフにしましたが、そうすると寒い。これ、部屋だけではなくなんだか旅館全体がうるさいのですね。食事をするラウンジは奥のほうからシューシューとエアの音がしていましたし、廊下も何かゴォンゴォン機械の音がするのです。きっと経営者の方は気がついていないのでしょうね。

さて、朝食は昨晩と同じラウンジでいただきます。思ったとおり、同じところからの仕出しです。おかずは納豆だけで、旅館の朝食定番の生玉子も焼き海苔もありません。これ、納豆が嫌いな人や外国人の宿泊客はどうするのでしょうね?せめてトーストに目玉焼き、コーヒーか紅茶などの洋食が選べてもいいのではないでしょうか。


これが朝食。ご飯とみそ汁はセルフサービスではなく、持ってきてくれました。

日本旅館の楽しみと言えばお風呂と食事ですが、ここはちょっと簡素化が行き過ぎている気がしますね。夕食もそうですが納豆だけの朝食はぜひ見直してほしいところです。例えば、以前宿泊した会津若松市内のビジネスホテル「タカコー」だって和と洋の朝食を選択することができましたよ。こちらをご覧ください。


これが朝食の和食です。これで600円とは良心的なお値段です。

洋食ですが、こちらも同様に600円でした。600円でもここまでできるということですね。

そして旅館全体がうるさいのはノンサービスとは関係ないのですが、クオリティが低いと言わざるを得ません。傷だらけの壁や破れたままの網戸などすぐにできる補修がされていないところも管理者の目が行き届いていない証拠でしょう。

というわけで、お安いのはいいですがやり方がまずいとこうなってしまうという例でした。布団を敷いておいてくれなくても全然かまいませんが、食事の質は落とさないでほしかったですね。同じ温泉内に系列の立派な旅館があるのですから、そこの厨房から料理を運んできてそこそこのバイキングくらい簡単に提供できるのではないでしょうか。

さて、9時にチェックアウトして向かったのはさざえ堂がある飯盛山です。
飯盛山で最初に訪れたのは駐車場の目の前にある厳島神社です。白虎隊ゆかりの地としても知られる飯盛山に鎮座する厳島神社が地域の豪族であった石塚、石部、堂塚の三家により創建されたのは、南北朝時代の1381年〜1383年(永徳・弘和年間)といわれています。創建のきっかけは、多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げによるものと伝えられ、社殿造営中も童女たちが姿を現して人夫達に小豆ご飯を振る舞ったのですが、この小豆ご飯がいくら食べても減らなかったことから、「飯盛」の地名となったとそうです。1700年(元禄13年)には、第三代会津藩主松平正容により、神像および飯盛山周辺の土地580間が寄進されて新たに鳥居や仁王門、青銅造りの大仏も建立されましたが、明治時代の神仏分離令によって現在の厳島神社に改名され、境内にあった大仏は会津若松市内七日町駅そばの阿弥陀寺に移されたとのことです。

境内左手に、山肌から大量の水を吐き出しているのが戸ノ口堰です。猪苗代湖の水を引くために作られたもので、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主蒲生忠郷公に願い出て、藩主が奉行の志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。最終的には1835年(天保6年)に当時の藩主松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われて現在の形に完成しています。会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰って城に戻る際にこの洞穴を抜けたと伝えられています。


飯盛山の厳島神社です。

そして社殿の左側には水が流れ出てくる洞窟があります。

厳島神社の右側を見ると丘の上にはさざえ堂があります。
会津さざえ堂は寛政8年(1796年)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層の木造のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といい、重要文化財指定名称が「旧正宗寺三匝堂」となっているように、当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があって、そこの住職であった僧郁堂(いくどう)が考案した建物ですが、外観がさざえに似ているというので「さざえ堂」と呼ばれるようになりました。その独特な2重螺旋のスロープによって上りと下りが全く別の通路になっている一方通行(天井が反対方向の床になっている)の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるようになっています。この珍しい建築様式を採用したことで、平成8年に国重要文化財に指定されています。
スロープに沿って壁面に厨子(ずし)が設置されていますが、かつてはこの中に高さ70センチほどの西国三十三観音像が1体ずつ安置されていました。つまり、お堂を一周することで西国三十三所のバーチャル巡礼ができるというわけです。会津にいながら、さざえ堂を一周することで巡礼できるというのは画期的なアイデアであり、江戸時代の庶民にとってはありがたい存在だったことでしょう。三匝堂の“匝”という文字には“めぐる(匝る)”という意味があって、当時の人々は三周めぐって観音様をお参りしていたのですが、明治の神仏分離令によって三十三観音像は取り出され、現在は会津藩の道徳の教科書だった「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられています。


この形と内部の構造からさざえの殻に似ているというのでさざえ堂。見学料は400円。

入口から黄色の床を登っていくと、下りではそれまでの天井を踏んで降りてくる構造になっています。

ここが入口です。絡みつく蛇の飾りに注目。

出迎えるのはこの堂を建てた郁堂和尚の像。

らせん階段ではなく、スロープになった床板に滑り止めがつけてあります。

天井もかなり低いことがわかります。

さざえの殻の中心柱。この空間の用途はいまだに不明だそうです。
右の厨子にはかつて33体の観音像が置かれていましたが、今はありません。
厨子の上にある額は、会津藩の道徳の教科書だった「皇朝二十四孝」の絵です。

ここにも観音像が置かれていて、中心の新しい板はさい銭投入口(写真右)を撤去した跡です。観音像と同じく33か所あって、そこに投入されたお金やお米は、裏側に設けられた樋を流れて最下層のさい銭箱に集まるようになっていたそうです。これによって33か所を集めて回らなくてもよい、自動回収システムが出来上がっていたわけですね。

ここが最上部です。それにしてもすごい数の千社札ですね。

ここも観音像があった厨子。この裏から下り道。

ここは床でもあり、下の層の天井でもあります。

滑り止めの板は板と板のつなぎ目に打ち付けてあり、合わせ目から
砂などが下を通る人に落ちないように工夫されているのです。

1番下に着きました。出口で、正宗寺の開祖である残夢大禅師の像が見送ってくれます。

まだ周囲には雪が残っています。

さざえ堂の中を見たのは今回が初めてでした。2018年に新潟の後で会津若松に立ち寄り、ここさざえ堂にも来ていますが、外から写真を撮っただけでした。今回は時間の余裕がありますので、このあと白虎隊の自刃の地や墓地も観るつもりです。その結果、飯盛山での観光ルートは以下のようになりました。

さざえ堂の隣に小さなお堂があって、お線香の匂いが漂ってきます。中には白虎隊自刃の図なんて絵もかかっていますが・・・・あれ、もうお墓?そんなはずはないはず・・・まあ、慰霊堂みたいなものですかね。あ、由緒を書いた札がありました。宇賀神堂というのですね、ほう、フランス流の軍服があったのですね。かつて会津藩士の子弟を教育するために作られた「日新館」という藩校があって、白虎隊もそこで訓練されたのですがその訓練がフランス式だったそうです。


お堂の中に人形が並んでいますね。

写真を拡大しました。確かに着物ではなく洋装ですね。この方が生き残りですか・・・

とりあえずお線香を立ててご冥福をお祈りしました。

お線香一束50円で売っていましたので、線香を立ててお参りしておきました。その隣が土産物屋なので、そこの付属設備かと思ったのですけどね、第3代の会津藩主が建てたものだったのですね。

ああ、やっぱり土産物屋を出たところに案内板がありました。「白虎隊墳墓=>130m」と書いてあります。行ってみましょう。おお、会津若松の市街が一望できます。白虎隊の兵士はここ飯盛山から城が燃えているのを見て自刃したということですが、さすがにもう高いビルの陰になって見えないかと思いましたが今でもちゃんと見えますね。


墳墓への通路から会津若松の市街と鶴ヶ城がよく見えました。

これが隊士のお墓です。

墓石が19柱、並んでいます。奥に31名の戦死者の墓が見えます。


お墓にはこういうものも建っています。


ドイツからも。

そして20人目の白虎隊士のお墓が飯盛山にありました。


実際に自刃した場所は、同じ飯盛山のお墓の100m程南(5番の柱のあたり)だったようです。

お墓の場所から会津若松市内が望めました。遠くの山はまだ真っ白です。
もっと左のほうを拡大してみたら、確かに鶴ヶ城が見えました。

飯盛山はここまで。では、市内に戻って「会津町方伝承館」に行きましょう。
ここは観光案内所になっているので、資料をもらってからそこに車を置いたまますぐ隣の西軍の墓地を見学するのです。たまたま2階で「一貫張り」という日本の江戸時代からの伝統工芸の展示会が開催されていたので見せてもらい、ざるをひとつ購入しました。


「会津町方伝承館」に到着しました。ここで観光マップをもらいます。(ネット画像使用)

竹で編んだカゴに古い布地や和紙を貼り付けて漆や柿渋を塗ったものが「一貫張り」です。

伝承館の前の路地を入ると、かつて会津戦争の時に政府軍が屯営を置いていた融通寺があります。戊辰戦争で勝利した西軍の戦死者の墓地もここにあります。西軍の死者は150人であるのに対し負けた会津藩の戦死者は約10倍近い1,300人ほどになります。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がありますが、まさにこの戊辰戦争から生まれたものです。勝者となった官軍の犠牲者はこの場所に手厚く葬られましたが、負けた東軍会津藩士の亡骸は、政府軍が賊軍として見せしめにするためなかなか埋葬を許さなかったために鶴ヶ城降伏から半年近くも野ざらしで放置されていた場合があったとのことです。


公園の右奥に融通寺があります。かつては西軍の屯営があったところです。

整然と並ぶ西軍兵士の墓。

門にはこのように、西軍の兵士たちの家紋が入っています。

一方、東軍の墓地は七日町駅近くの阿弥陀寺にあります。
阿弥陀寺は、浄土宗の寺院で1603年に開山されたとされています。会津戦争で戦い、敗れた会津藩士約1300名がこの阿弥陀寺に埋葬されています。会津藩士の遺体は、戦争が終わった後は野ざらしにされていましたが、のちに埋葬箇所として罪人が埋葬される小田山下と薬師堂河原に葬るように決められたそうです。ですが、取締り役としてとして残留していた会津藩士の高津、町野両名が寺院に埋葬できるように民政局に嘆願した結果、阿弥陀寺と長命寺に埋葬することができたそうです。

阿弥陀寺の境内には、元新撰組三番隊隊長として有名な斎藤一のお墓もあります。
斎藤一は、一刀流の達人でしたが、19歳の時に誤って人を斬り、江戸から京都へ逃れた際に上洛してきた浪士隊と会って新選組結成後はその腕を買われて三番隊の組長となり、沖田、永倉に並ぶ剣客で剣術師範も務めた程であったそうです。後は、山口二郎と改名し戊辰戦争に身を投じ、鳥羽伏見、甲州勝沼の戦いを経て会津に辿り着きますが、すでに近藤は亡く負傷した土方に代わり隊長となり新選組を指揮しました。しかし会津戦争が敗戦間近になると、見切りをつけて仙台に向かおうとする土方と意見が対立し、『会津を見捨てるのは正義ではない』と会津に残って最後まで会津藩士とともに新政府軍と戦いました。その後藤田五郎と改名し、会津藩士の娘時尾(ときお)と結婚して警視庁に勤務し、最後は東京教育博物館に勤務。会津人として生き、享年72歳。本人の希望により七日町阿弥陀寺に葬られています。

そして東軍墓地の隣にあるのが、御三階(ごさんかい)と呼ばれる建物で、会津戦争後に取り壊しが決まった鶴ヶ城から払い下げられたものだそうです。会津戦争中に一度阿弥陀寺の本堂が焼失したため、鶴ヶ城の小天守だった御三階を仮本堂として使用していました。ちなみに見た目は3階建てですが実は4階建てとなっており、当時は密議の際に使用されていたようです。


ここが東軍の墓地がある阿弥陀寺です。

ここが東軍の墓地です。個々の墓石はなくて、まとめて埋葬されています。

確かに見た目は3階建てに見えますね。

さて、七日町に来たならあそこに行きましょう。去年、3時でお仕舞いということで入れなかった「末廣酒造嘉永蔵」です。末廣酒造さんには、会津若松郊外にも博士蔵というのがありますが、こちらは嘉永3年(1850年)に創業したので嘉永蔵と呼ばれています。

こにはカフェや売店のほかにギャラリー、コンサートホール、そして日本製カメラをはじめ世界各国のクラシックカメラが500台以上展示されているというカメラ博物館もあるのです。ただ、展示されているカメラは、てっきり末廣酒造のご当主が収集したものなのだろうと思ったらそうではなく、元々福島クラシックカメラの会長のコレクションだったものを処分するにあたって末廣酒造が蔵での展示を引き受けたものだそうです。

もちろん、試飲コーナーもありますので、私は運転者なので飲めませんが、息子に試飲させて気に入ったお酒も買って帰りますよ〜。


末廣酒造嘉永蔵に到着しました。

大きな杉玉ですね。今日は左側の門が開いています。

この先が入口です。左側にはカフェがあります。

大きな建物ですね。

これが見たかったのです。入場料は300円。文字が小さくて気が付きにくいですね。

なかなかのコレクションです。

反対側の壁はこうです。

昔の写真屋さんはこれでしたね。

懐かしい。引き伸ばし器がありました。

名機でしたね。

私にも写せます」でバカ売れしました。

二眼レフがこんなに・・・。

売店では試飲も出来ます。

観光客用の駐車場。緑の線は、融雪用の水を撒くゴム製のノズルです。

さて、お昼ご飯の時間となりました。
お昼は「えびや」さんの鰻を予定しています。向かいにも有料駐車場がありましたが、前回と同じ隣の駐車場に車を止めたところ、そちらは提携していないので無料サービスはないと言われました。ありゃ、300円損しちゃった。まあ、いいや、おなかが空きました。ちょうどお昼時ですが、テーブル席が空いていました。さてと、ここは2018年に初めて来てお値段が手ごろなことに驚いたお店なのです。そして面白いことに、お重箱に入っていても丼でもご飯の上に鰻が乗っていれば「うなどん」、ご飯と鰻が別々なのが「うなじゅう」なのです。さらに、大串、中串があって大串は半分に切った鰻の頭に近い切り身2枚、中串は頭としっぽの一匹分となっています。ところがメニューを見ると・・・あれ?変わっている。そうなのです、うな重とうなぎ定食があってこれはご飯が別なのがうなぎ定食でしょう。そして大串とか中串は無くなって、「雪」「月」「花」というランクになっています。普通のウナギ屋さんだと「1.5枚」「2枚」「3枚」となってすぐに大きさの区別がつきますが、これはわかりません。前より簡単になったような、難しくなったような・・・そう、それに最大の変化は価格です。前は大串でも2,376円でした。それが今のどれに相当するのか、まあ、「雪」や「花」ということはないでしょうから「月」ですかね、それだと3,300円ですので1,000円近く値上がりしていることになります。いやあ、名前を変えるのは好きにしてもらっていいですが、値段の変化のほうは歓迎できませんねえ。


ここがうなぎのお店「えびや」です。


上が今のメニューで、下が2018年のメニューです。

これがうな重の「雪」です。2,200円。ご飯を少なくしてもらいました。

これがうな重の「月」です。3,300円。

これが2018年の写真。上が頭に近い半分と後ろの1匹分で1728円の中串で、
下が頭に近い半分2枚の大串で2376円です。どちらも肝吸い付き。

いやあ、残念でしたね。もちろん、うなぎの値段が上がるのは理解していますがこれなら東京と変わらないですね。わざわざここにきて食べる価値はなくなりました。会津のわっぱ飯とかソースカツ丼、喜多方ラーメンでも食べたほうがよさそうです。

さてこれで会津若松編は終了です。
バイパスを少し走って磐梯河東インターから高速に乗り仙台を目指します。そして、手前の仙台南インターから右にそれて仙台南部道路を経て仙台東道路を北上、仙台港北インターで高速を降りました。その後一般道の国道45号線を通って塩釜市に向かいます。

塩釜市内に入ったのは午後4時。ホテルに行くにはちょっと早いですね、塩釜神社でも見るとしましょう。拝殿に一番近い第一駐車場に車を止めて、参道を歩いて登ります。

桜の木が植えてありますが、まだ時期には早かったですね。桜の見ごろは、このあたりだと4月の中旬から下旬でしょうか。「日本三大桜」の看板がありましたので、そのうちの一本がここにあるのかと思って読んでみるとそうじゃない、塩釜とは書いてありませんが「この境内に植えられている日本三大桜」ってどうゆうこと?訳が分かりませんが看板の後ろにあるたいして大きくもない桜の木を撮っておきました。あとで調べて分かったことですが、塩釜にある桜の木は本来の三大桜を株分けして植えられたものなのだそうです。そうと知って看板を読み直したら意味が分からなくもない、しかし株分けしたのならそうとはっきり書けばいいじゃありませんかねえ。コピーだとなにか、有難みがないと考えたのでしょうか。


意味不明の案内看板がありました。

どう見てもこの桜が「日本三大桜」には見えません。

そしてもうひとつ、桜からちょっと上ったところに錆びた鉄釜が展示されていました。
なるほど、ここが塩釜神社だから昔海水を煮て塩を作った窯がこれか、と思いますよね?ところが案内看板を読むと、え?「鋳銭釜」?何とこれは江戸時代に銅の貨幣を鋳造するために使われた釜だそうです。上から銅の素材と炭を入れて中段から空気を吹き込むと下段に溶けた銅がたまる仕組みです。お米を蒸す「甑(こしき)」に似ているので、「甑炉型と呼ばれています。

では「塩釜」はないのか?地名が「塩竈」と書かれているのはなぜか?と思ったら、そもそも塩釜もしくは塩竈とは海水を煮て塩を作る竈(かまど)に由来しており、このあたり一帯が海辺に竈が数多く置かれた場所として有名であったことからこの地名が生まれたそうです。その昔、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が海水を煮立てて塩を精製する方法を人々に教えたので、ここが日本における製塩発祥の地ともなっています。そしてその塩土老翁神はちゃんと塩釜神社に祭られています。さらに「製塩釜」自体、これは塩釜神社の系列である市内の御釜神社の「神竈奉置所」に7つあったうちの4つが保管されているそうです。また、塩竈市の「竈」の字についてですが、以前には「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」などが使われていたそうですが、市役所では1941(昭和16年)から「塩竈」という表記に統一しています。鹽と塩は同じ字義(旧字体/新字体の関係)なのですが、竈と釜は意味が違う(竈=窯で焼く設備全体のこと、釜はそこで使われる調理用器具)ので正式な自治体名としては「釜」を採用しなかったとのことです。とはいえ一般的には「竈」と「釜」の両方を使用することが認められていて、市民や他の官公庁が「塩釜」と書いた書類を提出しても塩竈として受理しているそうです。

お、てっきりこれが塩竈かと思ったら、違いました。

というわけで、銅を熔かして硬貨を作るための溶融釜でした。

ここ、塩釜神社の境内には二つの神社があります。
そのひとつめが「志波彦神社」で、その名のとおり農業の守護神である志波彦大神をお祀りしています。もともと宮城郡岩切村(仙台市岩切)にあったのですが、明治7年12月24日に塩釜神社の別宮本殿に移り、さらに昭和13年9月に今の場所に本殿が建てられたのです。『延喜式』の神名帳に記載されている2,861社の中でも225社しかない「名神大社」と言う高い格式を持つ神社であるということです。


こちらが志波彦神社の神門です。

神社の由来が書かれています。

きれいに整えられた庭園です。

ここから塩釜港が一望できます。

さらに上って塩釜神社に向かいます。この神社の中心となる神様が製塩方法を民に教えたという塩土老翁神(しおつちおじのかみ)なのです。この神社の歴史は古く、平安時代初期にすでに重要な神社であるという記載が書物にあるので、多賀城が設けられた奈良時代には出来ていたのではないかと言われています。


これが塩釜神社の唐門です。

なで牛。開運や商売繁盛にご利益があるそうですが、今はコロナのためなでるのは禁止。


唐門を入って正面の左右宮拝殿。
左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)を祀っています。


左の小屋が神馬舎。その前の桜が咲いていました。

なるほど、花が小さいですね。

捕鯨銃が展示され、後方に銛が並んでいます。かつて塩釜は捕鯨基地でした。

歴代藩主が塩釜神社に太刀を奉納したそうです。

博物館まで降りてきたときにはすでに閉館時間の5時になっていたので、太刀の一本も見ることができませんでした。残念。

そのまま駐車場に降りて、宿泊するOYOホテル塩釜&松島に向かいます。ここは同じ建物に郵便局があるので、わかりやすいですね。ホテルの真ん前に駐車して、チェックインします。ここには3人用の部屋がないので、ツインとシングルを一部屋ずつ、同じ階に取ってもらいました。私の部屋は4階の東向きで、窓から塩釜港が見えます。


これが今夜宿泊するホテルです。

部屋は4階で窓の向こうに海が見えます。

さて、夕食は2年前に弘前の帰りに塩釜に泊まった時に行った、回転寿司「塩釜港」に行く予定です。回転寿司とは言え、地元の魚や宮城の名物を食べられて美味しい店なのです。そうか、前回は平日だったけれど今日は連休だから予約したほうがいいかな。さっそく電話してみると、当日の予約は受けていないとのことでした。それじゃあ、すぐ行って並ばなくちゃ。ホテルを出て、タクシーを捕まえてお店に向かいます。

うーん、結構並んでいますね、7組目です。おや、お店の人が名前を書く紙を仕舞ってしまいました。もうこれ以上は入れないということなのですね。早く出てきてよかった。
結局、1時間近く待って、席に着くことが出来ました。まずはお酒、浦霞のしぼりたてをもらいます。あとは、キンキの煮つけや北寄の塩焼き、モウカの星(サメの心臓)、ホヤなどの料理をもらいます。合間にお寿司もつまみましょう。お酒がすすみますね。いやあ、塩釜まで走って来た甲斐がありました。この店に入れてよかったぁ。


ここが魚が旨い回転寿司、「塩釜港」です。

まずはおつまみを3種、もらいました。

私が好きな北寄貝の塩焼きです。600円。

キンキの煮つけは1,000円。

白魚の玉子とじ。優しい味で300円。

握りは、まずは珍しい真子ガレイから。

そして甘いヤリイカ。

仁王サバは脂が乗っていますね。

塩釜に来たらまずはこれですね。ホヤ酢です。

これは珍味ですよ。モウカザメの心臓の刺身、「モウカの星」です。

本マグロと普通のマグロの食べくらべをしました。もちろん、本マグロは左。

これも珍しい、マグロの心臓の塩焼き。

北寄の握りももらいました。この皿は600円です。

生鮭の握りは250円。

のどぐろの炙り、これが最後の一皿でした。

ああ、美味しかった。塩釜ならではの味を食べることが出来ました。
さて、では落ち着いて飲める店に行きましょう。前に来たときはホテルの近くの小さな寿司屋さんに行きましたけどね。そこでいいかな。すると息子がホテルのフロントで美味しい店を聞いてきたというのです。ホテルのすぐそばで居酒屋だというので、そこに行ってみることにしました。塩釜港からすぐそばのJR塩釜駅まで歩いてタクシーを捕まえました。

そして到着したのがJR本塩釜駅前の「ひなた」でした。小上がりに座り込んで、メニューをのぞき込みます。お酒は「阿部勘」をもらいました。刺身は・・・え、北寄がないの?


突き出しはマグロの山掛けとマカロニサラダ、お酒は「阿部勘」です。

こちらがマグロのほほ肉のステーキです。コショウかけすぎでした。

ギンダラのカマ焼きです。あまり肉が付いていませんね。

落ち着いて飲みたかったのですが、隣のテーブルのグループがギャアギャア騒いでおり特に女性の声がやたら耳に響いたので、お酒も料理も追加は頼まず、そそくさと失礼してホテルに戻って寝ました。

 

3月21日(月)

朝から快晴です。朝食はホテルではなく外で食べる予定なので、8時にチェックアウトして出発しました。10分ほど走って、塩釜海鮮仲卸市場に到着しました。ここはプロだけではなく、一般市民も自由に買い物ができる市場なのです。
中に食堂もあるので朝食はここで食べようと思います。


ここが塩釜水産物仲卸市場です。

祝日とあってお客さんが結構来ています。

鮮魚だけではなく加工品やお米も売っています。

入り口を入ってすぐの海鮮丼の店を覗いてみたら、明らかに観光客価格ですよね、3,000円とか言っています。確か奥にも食堂があったはずと行ってみたら、あるではないですかラーメンとかそばとか定食の普通価格のお店が。ちょっと寒いので私はラーメン、女房は温かいそば、そして息子はアナゴ天丼を選択しました。


アナゴ天丼定食です。1100円。

これは追加注文のホヤの天ぷらでした。500円だそうです。

温かい五目そばは600円です。

豚骨塩ラーメンは760円です。

意外と美味しいラーメンでした。

私は東京では豊洲や足立の市場に買い物に行きますが、観光客じゃあるまいしそこで海鮮丼なんかは食べません。豊洲なら親子丼、足立ならラーメンと大体決まっています。ですから塩釜でも、高い金を出して地元で獲れもしないチリサーモンとかアルゼンチン赤エビなんぞ食べたくはないのです。豚骨塩ラーメンは、珍しくはなくてもほっこりと体を温めてくれました。

さて食べ終わったので買い物をしましょう。お、バクライがありますね。これ「莫久来」と書きますが、ホヤとコノワタを塩辛にした珍味です。私、これが大好きなのですよ。お酒が進んじゃいます。小さな瓶で1,800円もしますけどね、買っちゃいましょう。

それから・・・ひと塩のキンキがあります。これは大きいなあ、1,700円を1,500円にするというのでもらってきました。この値段ならアラスカものでしょうが、味は同じですからね。自宅に帰って長さを測ったら44センチもありました。このサイズではロースターに入らないので尻尾を切り落として焼きました。

さて、買い物は終わりましたがまだ9時過ぎです。
天気はいいし次はどこに行こうかな?松島って塩釜の隣町なので車で10分くらいで行けるのですよね。私と女房は前に十和田湖のバス旅行の際に行ったことがありますが、息子はまだ行ったことがありません。遊覧船が1時間に1本あって、クルージングが1時間くらいですから十分午前中に戻って来れますね。

ということで風光明媚な海岸線を走って、松島に移動しました。到着したのが9時40分、ちょうど10時発の遊覧船に乗ることが出来ました。


遊覧船の船着き場が見えます。

これが10時発の遊覧船「仁王丸」です。定員400名の新造船でした。

これが遊覧コースです。一周50分だそうです。(船会社の資料より)

最初の島は毘沙門島ですね。

鐘島:この島に4つあいている穴に波が打ち寄せると、釣鐘をたたいたように聞こえるところから鐘島と呼ばれる。また、遠くから見ると橋を架けたように見えるところから橋架け島とか、穴の形が小判の形に見えるところから金島とも呼ばれているそうです。

これが船名の由来となった仁王島です。

在城島:伊達政宗公がこの島で月見の宴を開いたそうで、その際に「このように見渡す限りの視界なれば落城の憂いなし」と言われたところから、城が無くとも在る城の島と=在城島と呼ばれています。

野々島です。向かいの桂島から電力が送られています。左の建物は小学校。

遊覧船から降りて「瑞巌寺」へ行ってみました。瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。
 9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であるといわれており、13世紀中頃には北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めました。関ヶ原の戦い後、伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも円福寺の復興には特に力を注いで、自ら縄張りを行ったり畿内から名工130名を招き寄せたりしています。 
慶長13年(1608年)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」と書かれており、これよって「瑞巌寺」という名前が広がって以後、正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」としました。翌年、5年の歳月を経た工事が完了、以後江戸時代を通じて伊達家の菩提寺として領内随一の規模格式を誇りました。

桃山美術を現在に伝える貴重な建築物であることから、昭和28年(1953年)に本堂と御成玄関が、昭和34年(1959年)に庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されました。平成30年(2018年)には10年に及んだ「平成の大修理」が完了し、政宗公が完成させた創建当初の姿が甦っているそうです。


瑞巌寺の入り口です。


崖に穴があけられています。


西国33観音は会津のさざえ堂にもありました。

参道の右側にある洞窟の壁面は軟らかい岩石だったのでしょうか、供養塔や五輪塔がたくさん刻まれていました。松島は古くから「奥州の高野」と呼ばれていて、供養が営まれた場所だったそうです。現在残っている一番古い供養塔は、寛永13年(1636年)、政宗公に殉死した佐藤吉信のもので、他の供養塔はそれより新しい時代のものであることから、今のような姿となったのは江戸後期のことと推測されているそうです。

さて、瑞巌寺はじっくり見ている時間がないので、駐車場へ向かいます。
途中、松島蒲鉾本舗に立ち寄りました。仙台といえば笹かまぼこ、それを自分で焼く「笹かまぼこ手焼き体験」が出来るようです。1本250円払って串に刺したかまぼこを買い、自分で網の上に置いて焼くのです。だんだん焼き目がついてきて、まん丸に膨らむとともにいい匂いがしてきます。焼きたては熱いのですが、フーフーしながら食べる、これがまた美味しいのですね。

もう一か所、「五大堂」を見ていきましょう。駐車場のすぐ手前です。東北地方に現存する最古の桃山建築で、慶長9年(1604年)に伊達政宗公が建てたものです。
宝形造、本瓦葺で、軒まわりの蟇股には方位に従って十二支の彫刻が施されています。
正面の額には「五太堂」と彫られていますが、実際は「五大堂」が正しく、これは揮毫者である105世天嶺性空禅師の筆の遊びと言われています。昭和25年(1950年)に、国の重要文化財に指定されています。


笹かまぼこを焼いています。

ふっくらと焼けました。

これも瑞巌寺の一部なのですね。

これがすかし橋です。中央に板が貼ってあるので誰でも歩けます。

これが五大堂ですか。堂々とした建物ですね。

名前の額は「大」ではなく「太」になっていますね。右は画像処理で文字を見やすくしました。

お堂の正面には松島湾が広がります。


帰りのほうが下りなので、板がないとちょっと怖いです。

2011年の津波は、松島湾の島々によって威力が減じられて1.2mだったそうです。

駐車場の一角に「うみねこや」というお店がありました。こちらが提供する軽食のひとつ「ずんだ揚げパン」は、宮城県の名物であるずんだをくるんだ揚げパンで、山形の最高級枝豆のだだちゃ豆を使用しているそうです。2018年8月21日に放送された日本テレビ「ヒルナンデス!」で取り上げられたこともあって、いまは一番人気の商品になっているようです。熱々を提供するためにオーダーを受けてから揚げてくれるので、3分程度待たなければいけません。


駐車場の一角にある「うみねこや」

これがずんだ揚げパンです。

中にずんだが入っています。

来た道を戻って塩釜市に戻ります。
まっすぐに向かったのは佐浦酒造店。私も愛する、かの酒「浦霞」の醸造元です。願わくば前夜飲んだ「浦霞 しぼりたて」を買って帰りたいのでありました。車を駐車場に止めたとたん、ダッシュで息子が飛んでいきました。このお店、下の写真に見える暖簾がかかっているところが入口で、その中はお酒と酒器の販売をするショップになっています。一般客との接点はそれだけです。今は新型コロナのせいで酒蔵の見物ツアーはやっていません。ただ、目的のお酒を買うのみなのですが、店内には「しぼりたては売り切れました」の張り紙がありました。うーん、残念。それではなにか東京あたりでは見かけないお酒をということで「純米辛口」を購入しました。

佐浦酒造さんの少し先に「御釜神社」があります。ここは塩竈神社の系列のお社で民衆に海水から製塩をする方法を伝えたという塩土老翁神(しおつちおじのかみ)をお祀りしています。建物の奥には塩土老翁神が製塩に用いたと伝えられる四つの神竈があって、この四口の釜は「日本三奇」の一つに数えられています。釜の中の水は溢れることも枯れることも無いとされ平常時は赤茶色の水をたたえていますが、2011年の震災時には四つの内二つが透明の水に変化していたといわれています。このように、なにか吉凶事が起こる前に水の色が変化することは江戸時代の頃にはすでに知られており、変化があれば仙台藩へ報告するよう史料に記録が残されているとのことでした。
また、この神社では7月4日から6日に渡り古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われます。この神事では海藻(ホンダワラ)を用いて濃度の高い塩水(鹹水)を作り、これを煮詰めて塩を作る一連の工程が儀式として再現されており、古代の製塩方法を今に伝える神事として宮城県の無形民俗文化財に指定されています。


佐浦酒造さんは銘酒「浦霞」の製造メーカーです。(ネット写真)

塩釜神社と同じ塩土老翁神をお祀りしています。


これが塩を作るための釜と同じものです。(本物は奥にあって撮影禁止です。)

さあ、これで塩釜見物もおしまいです。東京に戻りましょう。

そろそろお昼なので、高速に乗る前に多賀城市内の「利休」で牛タン定食を食べよういうのが今回の旅行の最後の締めとなっているのです。


定食は小鉢とテールスープ、タン焼と漬物それにデザートの5品です。

タンは4枚を半分に切ってあります。これで1980円。

デザートの抹茶菓子。

利休を出て、仙台港北インターから仙台東部道路に乗って南下します。
途中から常磐道になり、相馬、浪江、双葉と進んでいくと路肩に放射線量計が設置されていて0.02、0.03マイクロシーベルトと線量が上がり、最高は0.1マイクロシーベルトでした。また、「これより帰宅困難地域」の表示もあって、11年前の惨禍がまだ終わっていないことをひしひしと感じました。

矢田部を過ぎたあたりから渋滞が始まりましたが、三郷料金所を通過したのが18時半、そこからはスムーズで7時過ぎには高速を降りることが出来ました。
今回の旅行、走行距離は約950kmで、平均燃費はスタッドレスタイヤを履いていましたが意外と伸びてリッターあたり19kmとなりました。


今回952km走っての平均速度は59km、燃費はかなり良くて19kmとなりました。

お土産です。会津若松で5本、塩釜で1本の日本酒を購入してきました。

以上で2泊3日の、中身が濃いグルメ旅のご紹介を終わります。
さて、次回はどんな旅になるのでしょうか?どうぞ、ご期待ください。


					

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