<Visit to Kyoto>
2022年10月4日〜5日:秋の京都の旅

久しぶりに京都に行くことにしました。
今回の目的は紅葉を観ることではなくて、新型コロナのせいで来日後イギリスに帰れなくなってしまってずっと京都に滞在している、ニョーボのイギリス人の友人に会いに行くことです。最近入院して手術もしたそうで、その後の様子を心配していたのです。

今回利用したツアーは、前回と同じ「JR東海」の新幹線の切符とホテルの手配だけで観光ガイドや添乗員はつかないフリープランです。京都では友人夫妻が京都駅のホームまで来てくれて、そのあといつものようにおすすめの場所を案内してくれることになっています。

その結果の日程は;

10月4日
のぞみ225で東京=>京都、到着後友人の車で京都御所と西本願寺へ。京都高島屋「田ごと光悦舗」で夕食。京都タワーホテル別館泊。
10月5日
東本願寺でピックアップしてもらって雲龍院へ。京都駅前のアバンティでランチの後錦市場まで送ってもらいお別れ。買い物の後地下鉄で京都駅、のぞみ230で京都=>東京。

となりました。前回と同じ2日間の旅ですが、お二人の元気な姿を見て安心しました。なお、今回の旅行代金は、新幹線の時間帯希望割り増しを含めて一人23,700円でした。

第1日目:12月5日(火)
さて当日、利用する新幹線は東京駅発午前11時00分です。お昼をまたぐので大丸デパートの地下のグルメストリートで二人分のお弁当を買ってから新幹線に乗り込みました。

いまは完全にチケットレス化が進んでいて、JRから送られてきたメールのQRコードを自動発券機にかざすだけで乗車券や特急券を受け取ることが出来るようになっているのですね。

乗車した新幹線は「のぞみ225号」。今回も希望通りののぞみの予約が取れました。東京からずっと快晴で富士山もきれいに見えました。京都には定刻の13時15分に到着しました。新幹線ホームまで友人のご主人が出迎えてくれました。奥さんは足が悪いので、八条口のショッピングセンターの駐車場に止めた車の中で待っているとのことでした。

さて、久しぶりの再会を祝した後最初に案内されたのは「京都御所です。ここは2013年に来た際にも見てはいるのですが、いくつか見落としたところがあるので出来たら再度訪問したいという希望を伝えておいたところまた連れてきていただいた次第です。京都御所って昔はあらかじめはがきで観覧申し込みをしなければいけませんでしたが、何年か前から事前申し込みが不要になって通年一般公開されています。

今回の京都見物は京都御所からスタートです。ということで一日目の工程はこうなりました。

烏丸通を北上して中立売御門から入るとすぐ御苑の駐車場があります。ここに車を置いて清所門で手荷物検査を受けて御所の中に入ります。ここからは見学コースに従ってぐるっと反時計回りに中を見ていきます。御所に入って最初に右手にある建物が見学者のための休憩室です。


ひさしぶりにやってきた東京駅の新幹線ホームです。

京都の自転車通行帯のマークは、東京とは色が違いますね。

中立売御門には持ち物の検査所があります。

入るとすぐに向こうに御常御殿が見えました。天皇の日常の住居として使われました。

これが宣秋門です。京都御所の門の1つで公家が参内する際に使われました。

御車寄。高位の貴族が参内した時に使う玄関なのです。

諸大夫の間の屋根瓦。ここは参内した公家や将軍家の使者の控えの間で、身分によって3つに分かれています。

新御車寄の建物。

一番左の、宣秋門に近い部屋で格が低い訪問者用の部屋。ふすまの桜の絵にちなんで桜の間と呼ばれています。

桜の間と虎の間の間にあるのが鶴の間です。

鶴の絵がよく見えます。格式が中間の訪問者のための部屋。

一番格が上の控えの間で正式な玄関であるお車寄せから屋内に入ることを許されていたそうです。

大正天皇の即位の礼に合わせて、天皇の御所の出入りの伝統に合わせて南向きに新設された新御車寄。

ここは馬車による行幸に対応する玄関として大正4年に作られました。

月華門です。内裏を構成する内閤門のうちの一つで、紫宸殿南庭(なんてい)の西側の門です。

建礼門です。御所の南向きの正門であり、即位の礼など紫宸殿で行われる重要な儀式のときのみ使用されます。

御所で最も格式が高い正殿が紫宸殿です。紫宸殿から見て左に「左近の桜」右に「右近の橘」です。1855年造営。

「鳴くよウグイス平安京」のとおり、794年(延暦13年)、桓武天皇によって定められた平安京の内裏(皇居)は現在の京都御所から約2kmほど西にあったのです。しかし、度重なる内裏の焼失により、重臣たちの邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれるようになり、1227年(安貞元年)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。現在の京都御所は、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿に由来するもので1331年(元弘元年)、光厳天皇がここで即位して以来、御所とされたものです。1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居となり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいでした。豊臣秀吉や徳川幕府の時代になると、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、何度も大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小140以上の屋敷がたちならぶ公家町が形成されていました。1869年(明治2年)明治天皇の東京遷幸に伴って、多くの公家達も東京に移住したため、公家町は急速に荒廃していきました。1877年(明治10年)に京都を訪れた明治天皇は、その荒れ果てた様子を見て、京都府に御所保存と旧観維持を命じました。これをうけて京都府は屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、道路工事、樹木植栽等の保存修復事業を開始し、1883年(明治16年)に完了しています。御所の管理が京都府から宮内省に引き継がれた後も整備は続けられ、1915年(大正4年)の大正天皇の即位に際して、建礼門前大通りの拡幅改良等の改修工事が行われ、ほぼ現在の姿になっています。御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い長方形で、かつての内裏に属していた多くの建物と庭園が残っています。

京都御所の中で最も中心的な建物といえば「紫宸殿」ということになります。京都御所の正殿として、1868(慶応4)年に明治天皇が公家や大名を前に新政府の指針「五箇条の御誓文」を示し、明治、大正、昭和の3天皇の即位礼が行われた場所でもあります。直近の令和天皇の即位礼は東京で行われましたが、紫宸殿にあった天皇が座る御座である「高御座」と皇后の御座である「御帳台」だけは皇居に運び込まれていましたね。

東西約33m、南北約23mの御殿は南側を向いています。古来中国では、国の君主である天子は北を背に南を向いて人民を治める「天子南面す」という思想がああり、唐の都の長安を手本に造営された平安京はこの思想を反映しており、同じく平安時代の復古を目指して1855(安政2)年に再建されたこの紫宸殿にも受け継がれているのです。

さて、御所の見学を続けましょう。


御所の門のひとつ、賢春門。

蹴鞠の庭。右の建物は「御学問所」です。

「御池庭」は江戸時代に将軍や大名と対面する場とであった“小御所”と、“御学問所”の正面の池泉回遊式庭園。

庭園内を自由に歩くことはできません。

小御所」です。東宮御元服、立太子の儀式など皇太子の儀式が行われた所です。

蹴鞠の様子を描いた障壁画がありました。

ここにも美しい障壁画が残ってています。

天皇が日常を過ごす独立した御殿として新しくつくられた「御常御殿」にやってきました。

男子禁制で成人前の稚児と年老いた何人かの男性を除き、女官だけで天皇の世話を行ったそうです。

こちらが宮中御内儀の行事が行われた「御三間」で、下段の間、中段の間、上段の間に区切られています。


台所跡の公園です。

ぐるっと一周してもとのところに出てきました。

京都御所を出て、堀川通りを京都駅の近くまで下ったら右手に見えてくるのが西本願寺です。隣にある広大な駐車場に車を止めて降りてみました。ここは見覚えがあります。前回来たときは大きな法要イベントの後でテレビ中継の機材やお堂内の椅子が残っていました。

さて、西本願寺の見どころと言えばなんといっても国宝の「唐門」でしょう。
唐門は高さ8.7メートル、幅5.4メートルで、寺が1591年に現在の場所に移転した後に造られたとされています。日が暮れるのを忘れて見とれてしまうほどの美しさから、「 日暮門ひぐらしもん 」とも呼ばれています。実は2018年から3年がかりで進められてきた修復作業が昨年の9月に終わったばかりなのです。檜皮葺ひわだぶ き)の屋根をふき替え、門全体の黒漆を塗り直したほか、極彩色の 麒麟や唐獅子など107点の彫刻は、X線分析で使われた顔料を特定して彩色し直してあるのです。


西本願寺の境内です。広いですね。御影堂は世界最大の木造建築物です。

見事な銀杏の木がありました。

これが「唐門」?はいはい、前回も観ましたね。覚えています。見飽きないので「日暮門」とも呼ばれています。

黒い漆を塗りなおして、昔と同じ顔料で彩色されています。

あは、おっかけっこをしているのかな?。

これ、去年の8月に塗り直し工事を完了したばかりなので色が鮮やかです。

これが本堂の屋根です。

この鬼瓦も凝った作りですね。

雲がきれいです。

そしてこちらも。

そして次に向かったのは四条河原町。
お酒を飲まないご夫妻なので、高島屋デパートの和食レストラン「田ごと」で夕食です。

私は刺身と天ぷらの定食をいただき、女房は「なでしこ」というそうめんが付いた料理を選びました。


刺し身、天ぷら、茶碗蒸しと無難な和食にしました。

「なでしこ」という女性向きの食事です。

さて、夕食が済んだので、京都駅前まで送ってもらいました。我々の宿泊するホテルは京都タワーホテルのアネックスです。タワーホテルは駅前に高いタワーがありますのですぐわかりますが、アネックスはどこでしょう?その近くにあるはずなのですが、周囲を見渡しても分からなかったのでタワーホテルに行ってフロントで教えてもらいました。こうしてチェックインを済ませた後、のどが渇いたので駅前にあるビアレストランに入ってプレミアビールを2杯飲んでホテルに戻りました。

●第2日目:12月6日(水)
朝、ホテルをチェックアウトして、荷物を持って新幹線が出る京都駅八条口まで行ってコインロッカーに荷物を預けておいてから、待ち合わせ場所の東本願寺までぶらぶらと歩いていきました。

前日に見学したのは西本願寺で、今朝の待ち合わせは東本願寺です。
どちらも親鸞を開祖とする浄土真宗のお寺なのですが「お西さん」と呼ばれる西本願寺は「本願寺派」、お東さんと呼ばれる東本願寺は「真宗大谷派」と宗派が分かれています。どうして同じ浄土真宗なのにふたつがあるのでしょうか?
実はこの宗派が別れてしまった理由は、戦国時代の織田信長が大阪の石山本願寺にしかけた「石山戦争」が原因とされています。

当時の石山本願寺は、室町時代に浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)によって建立された浄土真宗の一大拠点であり、難攻不落の砦でした。織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできませんでした。しかし浄土真宗との戦いに天下統一の足止めされることを嫌った信長は、当時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)を間に入れて和睦を求めたのです。その時に本願寺内では信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、この2つの考えによって本願寺内が2派に分かれてしまったというのです。これが本願寺が東と西に分かれるきっかけとなりました。

当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)でしたが、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を主張し、一方長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張て激しく対立しました。最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡して准如と共に和歌山に移ったのです。

その後も顕如と教如の間に生まれた溝は埋まることがなく、顕如は浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲ります。当然納得できないのは教如です。時の支配者は徳川家康に移っていましたが、家康にとっても浄土真宗は邪魔な存在でした。そこで家康は浄土真宗の勢力を弱めようとして、不満を持っている教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせました。この結果、家康の目論見通り本願寺は東と西に完全に分かれ、分断敵対するようになってしまったのです。


東本願寺に到着しました。

東本願寺の正面の門が御影堂門です。

周囲を堀が囲んでいます。

御影堂は親鸞を祀った本堂です。

無事本願寺の前でピックアップしてもらって、これから向かうところは東山にある、かのサスペンスの女王と呼ばれた故山村美紗さんのお墓がある真言宗泉湧寺派の「雲龍院」です。

雲龍院は、応安五年(1372年)に後光厳天皇によって建立され、後後円融天皇が康応元年(1389年)に龍華殿を建立して妙法写経を始めたことが始まりです。以来、泉涌寺の別院である雲龍院は皇室と密接な関係を持つお寺です。後水尾天皇以降の陵墓が後山にあり、霊明殿はその皇族の位牌堂のことで、現在の建物は明治元年に孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受け建立されました。内陣の中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御尊牌そして左側には、後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右側には東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇女の尊牌が安置されています。また霊明殿前には徳川慶喜が寄進した石灯籠が配置されています。また、このお寺は写経の場としても知られ、現在でも後水尾天皇から寄進された写経机が使われているとのことです。

駐車に車を止めて参道をしばらく上ると木立に囲まれた雲龍院が見えてきました。
きれいに整えられた前庭を通り抜けて中に入ります。


雲龍寺に到着しました。

ここが入り口です。

きれいに整られたお庭です。

石庭がありました。

いい雰囲気ですね。

これが有名な「悟りの窓」ですね。

この窓から四季の庭を見ることができます。

この部屋から見る庭もいいですね。

これが徳川慶喜が寄進したという石灯篭でしょうか?

水琴窟がありました。

小さいけれどもなかなか趣のあるお寺ですね。

どの角度から見ても竜が睨んでいるという屏風がありました。

なんと、赤穂浪士の大内内蔵助の書が残されておりました。

写経をする大輪の間でお茶とお菓子をいただきます。

お茶の器には菊のご紋が付いていました。

落ち着いたいいお寺です。

雲龍院を出て、駐車場までだらだらと坂を下っていると左側に柵で囲った場所がありました。
案内看板があったので見てみると、明治14年に亡くなった桂宮淑子内親王のお墓でした。雲龍院には昔から皇族との関係が深いとあらためて認識した次第です。


奥のほうに土を盛った墳墓らしきものが見えます。

宮内庁が管理する桂宮家のお墓でした。

雲龍院を見たあとは京都駅前に戻って、アバンティというショッピングモールに車を止めて、モール内のレストランで昼食を取りました。

昼食の後は錦市場の近くまで車で送ってもらい、ご夫婦とはそこでお別れをしました。

錦市場は何度も来ていますし、前回来た時も鱧のつけ焼きなどを買って帰りました。今回も何か酒のつまみになるものを買って帰ろうと思います。とは言ったものの、なんだか市場のなかが寂しいですね、お休みの店が多いのです。


錦市場にやってきました。

通路が閑散としています。

シャッターが降りている店が多いです。伊藤若冲の絵があちこちに書かれていました。

錦市場はいまから400年前の平安時代から続いているそうです。この場所は、質の良い地下水に恵まれていたからでもあり、人口の多い中心部にあったこと、位置的に御所への納入に便利であったことも錦市場の発展の理由として考えられます。そして伊藤若冲は錦市場の青物問屋の生まれで、錦市場の西の入り口あたりには生家跡を示すモニュメントがあります。「野菜涅槃図」をはじめ若冲の描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャ、柘榴、蜜柑、桃といった果物までが題材として登場します。

ここでは子持ちアユの甘露煮、出汁巻き卵、生湯葉、サバ寿司などを買いました。
そのあとは地下鉄の四条駅から京都駅まで移動しました。コインロッカーに預けた荷物をとりだして改札を通り、ホームで時間待ちをします。

ホームには数分おきに電車が入ってきます。なかには「修学旅行」と表示された新幹線もあります。チャーター列車ですね。コロナが収まりつつある中で修学旅行も再開されたのですね。

さて、列車が到着しました。15時13分発のぞみ230号です。

東京駅到着は定刻通りの17時24分でした。帰宅したらシャワーを浴びて錦市場で買ってきたおかずでビールを飲みましょう。

 


					

=> Outing Topへ